オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン
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ジャン=マリ=マティアス=フィリップ=オーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダン伯爵(Jean-Marie-Mathias-Philippe-Auguste, comte de Villiers de l'Isle-Adam 1838年11月8日 - 1889年8月19日)はフランスの作家、詩人、劇作家。象徴主義を代表する存在の一人。
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[編集] 生涯
ブルターニュ地方サン=ブリユーにて大貴族の家系に生まれる。父ジョゼフ=トゥサン侯爵と母マリ=フランソワーズ(旧姓ル・ネヴー・ド・カルフォール)はいずれも裕福でなく、母方のおばのド・ケリヌー夫人から仕送りを受けて暮らしていた。父は、マルタ騎士団の失われた財宝(フランス革命中にカンタン近郊に埋められたと伝えられる)を発見して家門を再建するという妄念に取りつかれており、宝捜しのために莫大な金を費やして土地を買い漁り、掘り返し、何ら価値あるものを見つけられぬまま大損を出して土地を売り渡すということを繰り返していた。
リラダン少年は問題児であり、学校を6回以上にわたって転校したが、子供の頃から詩作と作曲に才能を示していたため、家族からは芸術の天才と信じられていた。ブルターニュ時代には恋人の死という出来事にも遭遇した。この出来事は、彼の文学的想像力に多大な影響を残すこととなった。
リラダンは1850年代後半からたびたびパリを訪れ、この都で芸術の虜となった。1860年にはおばの遺産が転がり込んだため、生涯パリで暮らして行けるだけの財産が手に入った。そのころ彼は既に機智あふれる酔談によって数々の文学サークルで有名人となっていた。ボヘミアン生活を送るようになった彼は、有名なカフェLa Brasserie des Martyrsで崇敬するボードレールに出会い、ポーの作品を読むように奨められた。こうしてボードレールとポーはリラダンの文学に最も大きな影響を及ぼすに至った。しかし彼の最初の著書Premieres Poésies(1859年、自費出版)は韻文であり、内輪以外ではほとんど反響を呼ばなかった。このころ彼はルイーズ・デョネと同棲し始めたが、ルイーズは名だたる淫婦だった。このため、一門の名声に傷がつくことを恐れたリラダン一族によって彼はソレーム修道院に入れられ、頭を冷やさなければならなかった。彼は信仰において甚だしく正道を踏み外していたが、それでも終生熱烈なカトリック信徒でありつづけた。
1864年、とうとうルイーズとの関係が破局を迎えた。しかし、一門の家格にふさわしい花嫁を得ようという彼の努力はことごとく徒労に終わった。1867年、彼はテオフィール・ゴーティエに向かって娘のエステルを嫁にくれるよう掻き口説いたが、ゴーティエは若い時期の経験からボヘミアンの世界にうんざりしていたため、生活力のない芸術家に娘をくれてやる気などさらさらなく、リラダンの求めをはねつけた。リラダン家の側でもこの結婚には大反対だった。資産ある英国女性アンナ・エア・パウエルとの結婚話も、同様にお流れとなった。とうとう彼はベルギーの御者の未亡人でマリ・ダンティーヌという無教養な女性と一緒に暮らし始めた。1881年、マリは彼の息子ヴィクトール(愛称は「トトール」)を出産した。
彼は1869年、崇敬するリヒャルト・ヴァーグナーをトリープシェンに訪問した。自作の戯曲La Révolteの原稿を朗読したリラダンは、ヴァーグナーから「本物の詩人だ」と讃えられた。翌年もヴァーグナーを訪れたが、この時は普仏戦争勃発のために中断を余儀なくされた。(このときリラダンは国家警備隊の指揮官として従軍している。)最初のうち、彼はコミューンの愛国精神に感動し、マリユス(Marius)という変名でTribun du peupleに提灯記事を書いたものの、ほどなく革命軍の暴力沙汰に嫌気がさしてしまった。
1871年に悲劇が訪れた。母方のおばのド・ケリヌー夫人が亡くなり、それによって生計の途を失ったのだ。彼は数多の文学サークルに崇拝者(中でも最重要人物は親友のマラルメだった)を持っていたものの、大手紙にとってリラダンの小説はあまりに風変わりで大衆受けしない代物だったし、興行界からも彼の戯曲は成功の見込みが薄いと見なされていた。リラダンは家族を養うために半端仕事を始めざるを得なかった。ボクシングのコーチをしたこともあったし、葬儀場で働いたこともあった。香具師の使い走りをしたこともあった。虎がぎっしり詰まった檻の中で自作の詩を朗読して見物人から金を取ろうと考えたこともあったが、やがてもっといい考えを思いついた。彼の友人レオン・ブロワによると、リラダンは代表作『未来のイヴ』(L'Eve future)の大半を、剥き出しの床に寝そべって執筆したという。なぜなら、強制執行官が家具を全部持って行ってしまったからである。こうした彼の貧困は、貴族的な誇りをかきたてるばかりだった。1875年には、祖先の一人であるマレシャル・ジャン・ド・ヴィリエ・ド・リラダンを侮辱した廉で、或る劇作家を訴えたこともある。1881年、彼はレジティミストの政党から議会選に立候補したが落選した。
1880年代になると、リラダンの運勢はやや変わり始めた。文学的に認められ出したのだ。しかし金がないのは相変わらずだった。彼の『残酷物語』(Contes cruels)がカルマン=レヴィ出版社から刊行されたものの、印税は雀の涙だった。しかしながら、この作品に注目したユイスマンスは『さかしま』(A rebours)の中でリラダンを褒め称えた。しかし時既に遅く、リラダンは胃癌に冒されていた。死の床で彼はとうとうマリ・ダンティーヌを入籍した。こうして最愛の息子「トトール」はようやく私生児の汚名から逃れることが出来たのである。
[編集] 著作
リラダンの作品はロマン主義の体裁をとり、構想の奇抜さや神秘趣味、恐怖描写に特色がある。とりわけ重要なのは戯曲Axel(1890年)、長篇小説『未来のイヴ』L'Ève future(1886年)、短篇小説集『残酷物語』Contes cruels(1883年)であろう。特に『未来のイヴ』の中で彼が創始したAndréideという語はアンドロイドの語源となった。
遺作『アクセル』は"Vivre? les serviteurs feront cela pour nous"(「生活? そんなことは召使どもに任せておけ」)という言葉で知られる。
[編集] 日本での受容
日本では、作家柴田錬三郎の義兄にあたる仏文学者齋藤磯雄がリラダンの翻訳紹介に生涯を捧げた。柴田はリラダンの小説作法から多大な影響を受けたという。
[編集] 著書
- Premières Poésies (初期詩集), 1859年
- Isis (長篇小説、未完), 1862年
- Elën (散文による三幕劇), 1865年
- Morgane (散文による五幕劇), 1866年
- La Révolte (一幕劇), 1870年
- Le Nouveau Monde (戯曲), 1880年
- Contes Cruels (短篇小説集), 1883年
- L'Ève future (長篇小説), 1886年
- L'Amour supreme (短篇小説集), 1886年
- Tribulat Bonhomet ("Claire Lenoir"を含む小説), 1887年
- L'Evasion (一幕劇), 1887年
- Histoires insolites (短篇小説集), 1888年
- Nouveaux Contes cruels (短篇小説集), 1888年
- Chez les passants (短篇小説集、評論雑纂), 1890年
- Axël (戯曲), 1890年 遺作
[編集] 参考文献
- Jean-Paul Bourre, Villiers de L'Isle Adam: Splendeur et misère (Les Belles Lettres, 2002)
- Natalie Satiat版 L'Ève future (Garnier-Flammarion)