カシミールプリンセス号爆破事件
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カシミールプリンセス号爆破事件( - ごうばくはじけん、英語:Kashmir Princess、中国語:喀什米爾公主號)とは、中華人民共和国政府がチャーターしたインド航空機に対して行われたとされる航空テロである。
このテロの目的は周恩来首相の暗殺を狙ったものであり、中華民国(台湾)国防部秘保局に買収された中国人清掃係が香港の空港で発火装置を仕掛けたとされた。なお、この事件の背後にはアメリカ合衆国のCIAの関与があったともいわれている。
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[編集] カシミールプリンセス号
1955年4月にインドネシアで非同盟諸国が集まったバンドン会議が開かれることになった。中国政府も代表団を派遣することになったが、当時の中国民航には中国本土からインドネシアに飛行できる民間航空機を保有していなかった。
そのためインド航空からロッキード・コンステレーション(アメリカ製レシプロ4発旅客機)を北京から香港経由でインドネシアに向かう機体としてチャーターした。この時の機体がカシミールプリンセス号(機体記号:VT-DEP)であった。
[編集] 破壊工作
この機を利用するのは、当時の中国首相の周恩来が搭乗するとみられていた。中国国民党の情報機関はカシミールプリンセス号に航空事故にみせかけて墜落させるために発火装置をしかけることに決定した。
そのため香港の空港に勤めている中国人清掃員の1人を50万香港ドル(1説には60万香港ドルとも)で買収し、旅客機右翼の着陸装置の格納庫に発火装置を仕掛けた。
[編集] 周恩来
この機を利用するはずの周恩来は1955年4月11日に北京を出発する予定であった。そのため破壊工作はこの日に実行されたが、彼は難をのがれた。
それは彼が虫垂炎の手術を受けたためであり、実際に中国を出発したのは4月14日のことであり、インドネシアに行く前に、ビルマ(現在のミャンマー)とインドネシアの首相と会談するために、ラングーンを訪問した。
この点について、オックスフォード大学の教授は、彼が暗殺計画があることを事前に察知しており、おとりの訪問団をカシミールプリンス号に搭乗され、自身の日程は変更したのではないかと指摘している。
[編集] 墜落までの概略
カシミールプリンセス号にはインドネシアで開催されるバンドン会議を取材する新華社の記者3名とポーランドとオーストリアの通信社の報道記者など5名と中国政府派遣団6名ら乗客11名と乗員8名が搭乗していた。
1955年4月11日に香港を出発したカシミールプリンセス号であったが、離陸から4時間後に南シナ海上空18000フィートを巡航していた時に爆発音とともに右翼が炎上した。この事態に機長は第三エンジンを停止しフェザー状態(風車のようにする)とともに、電気系統が不作動になる前に遭難信号を発信した。操縦乗員は白煙によって視界が利かなくなり油圧系統が機能しなくなった困難な情況のなかで、ライフジャケットを用意したうえで不時着水を試みた。しかし、機体は不時着水の衝撃によって大きく3つに分解して水没してしまった。結局インドネシア沿岸警備隊に救助されたのは航空機関士と航法士とファーストオフィサーの乗員3名だけで、残りの乗員乗客16名は溺死した。なお最後まで操縦していた機長は殉職したがインド政府から民間人としては初めて勇敢な軍人に授与されるアショーカチャクラ勲章を与えられた。
[編集] 事件の捜査
事件後、中国外交部と香港総督は事件はアメリカ合衆国と蒋介石が組織した集団による殺人行為と主張した。また5月26日にはインドネシアの事故調査委員会もアメリカ製のMK-7爆弾が使用されたと発表された。
香港当局は逮捕のための有力な情報提供にたいして10万香港ドルの報奨金を用意するとともに、カシミールプリンセス号の整備に関係した71名を尋問したが、そのうちの一人に疑いの目が集中していた時に、アメリカのCIAに関係する民航空運公司の旅客機で台湾に逃亡した。
そのため、香港警察は国民党に買収された中国人による犯行と断定した。これは、彼が友人に事件における役割を自慢していたこと、そして香港から逃亡する前に大金を使っていたことが判明したためである。なお香港当局は中国に被疑者を受け渡そうとしたが、台湾当局はそれを拒否し、工作員であったことも否定した。
またCIAが直接関与したとする噂があったが証拠はない。ただ1966年にアメリカ連邦上院で1955年に「東アジアのリーダー」暗殺の策謀が証言されたほか、ソ連に逃亡したCIAのエージェントの回顧録でもそれとなく触れられているという。
[編集] 外部リンク
- aviation-safety.net(英語)
- 新华网 受難50周年追悼記事 (中国語簡体字)
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