周恩来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
周 恩来(しゅう おんらい、Chou En-lai、Zhou Enlai, 1898年3月5日 - 1976年1月8日)は、中華人民共和国の政治家。字は翔宇。
建国から死去まで中華人民共和国の政務院総理・国務院総理(首相)として在職。毛沢東の信任を繋ぎとめ、文化大革命中も失脚しなかった。1972年に田中角栄首相と日中共同声明に調印したことでも知られている。
目次 |
[編集] 経歴
中華人民共和国 |
![]() |
主な出来事 人物 理念 統治機構 |
![]() |
この欄を編集 |
[編集] 生い立ち
周恩来は江蘇省淮安の官僚地主の家に生まれたが、1914年、15歳のとき天津の南開中学校に入学し、3年前に孫文が為した辛亥革命の息吹に触れる。1917年、日本に留学。東京神田区高等予備校(法政大学付属学校)で学んだ後、1919年まで近隣の明治大学政治経済科(旧政学部:現政治経済学部)に通学した。1919年に帰国後、南開学校(南開大学)に戻る。この年に起こった五・四運動に参加、逮捕されている
[編集] 共産主義者として
1920年パリに留学し、中国共産党フランス支部を組織し、ヨーロッパ総支部がつくられるとその書記となった。この留学時代の仲間には、李立三や鄧小平、陳毅、朱徳など後の中国共産党の幹部となったものが多数いた。第一次国共合作が成立した1924年、周恩来は帰国して、孫文が創立した黄埔軍官学校の政治部主任となった。ちなみに校長は蒋介石であった。翌1925年、五・四学生運動時代の恋人鄧頴超と結婚した。
1926年、周恩来は上海に移り、ここで労働者の武装蜂起を指導して上海市民政府を樹立したが、入城した蒋介石の北伐軍に弾圧されて捕らえられ、処刑される寸前で脱出した。その後、国民革命軍の南昌蜂起を朱徳とともに指導した。1931年、江西省の瑞金に中華ソヴィエト共和国臨時政府が樹立されると瑞金に入り、軍事委員会副主席として活動、長征に妻とともに参加した。遵義会議では、自ら自己批判をして毛沢東に主導権を渡すのを助けた。以来最後まで毛沢東路線を支える役割を果たした。
[編集] 西安事件
周恩来の名が世界に知られるようになったのは、1936年の西安事件での活躍であった。これは当時「安内攘外」(国内を安定させてから外国勢力を追い払う)政策を採って共産党と抗日運動を弾圧していた蒋介石を、東北軍の張学良と西北軍の楊虎城が西安で逮捕、一致抗日を要求した事件である。蒋介石がこの要求に応じないことに困惑した張学良が、周恩来の派遣を求めた。周恩来は両者の間を調停し、誠心誠意、蒋介石に一致抗日を説いた。蒋介石はこの周恩来の熱意に暗黙の了解をしたといわれる。
[編集] 日中戦争・国共内戦
日中戦争(支那事変)が始まると、周恩来は共産党の代表として重慶に駐在して、蒋介石との統一戦線の維持に努めた。日本が降伏した後はそのまま重慶にとどまり、毛沢東とともに戦後の連合政府の樹立に向けた国共会談を続けた。これは物別れに終わり、国共内戦が始まった。これに勝利した共産党は、1949年に中華人民共和国を建国した。
[編集] 中華人民共和国建国と対外的な活躍
中華人民共和国の建国後、周恩来は政務院総理(内閣総理大臣に相当)に就任し、1976年に死ぬまで27年間この地位にあった。
周恩来は1954年のジュネーヴ会議に中華人民共和国代表として出席し、インドシナ戦争休戦の実現に尽力し、その間にインドのネルー首相と会談して、平和共存・内政不干渉などの平和五原則を発表した。翌1955年にはインドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議(バンドン会議)にも出席して、新生中国がアジア・アフリカの反植民地主義の立場にあることを世界に示した。
彼の誠実な人柄と自ら権力を欲しない謙虚な態度と中国革命への献身は、中華人民共和国民衆の深い敬愛を集めていた。また、その様な人柄のためリチャード・ニクソンやヘンリー・キッシンジャー、田中角栄などの諸外国の指導者層からも信頼が厚かった。
[編集] 文化大革命
共産主義 |
共産主義の歴史 共産主義の種類 共産党 社会主義国 人物 |
edit this box |
プロレタリア文化大革命が勃発すると、周恩来は毛沢東に引き続き従った。彼は毛沢東に従い、走資派(実権派)のレッテルを張られた劉少奇らの粛清に協力した。他の有力幹部のほとんどが失脚し、死亡する者さえいたなか、周恩来は最後まで地位を保った。文革の勃発時に共産党政治局常務委員(党の最高首脳)だった者のなかで、最後まで一度も失脚しなかったのは毛沢東を除けば周恩来と陳雲、朱徳だけだった。ただ、後の二人には何の実権もなかった。周恩来は毛沢東の路線に従い、毎日紅衛兵を接見して指示を与えた。劉少奇を「敵のスパイ」と決めつける党の決定を読み上げたのも周恩来だった。
その一方で周恩来は文革の「火消し屋」として紅衛兵の横暴を抑えようとした。紅衛兵が北京の道路を「右派に反対する」という理由で左側通行に変えさせ、大混乱に陥ったときも周恩来が介入しやめさせた。また故宮を紅衛兵が破壊しようとした際も軍隊を派遣して文化遺産を保護した。さらに出来うる限り走資派のレッテルを張られた多くの党幹部を保護しようと努めた。
しかし、周恩来のこれらの行動には限界があり、全体として文革の嵐を止めることは出来なかった。ここに、最後まで毛沢東に忠実だった宰相・周恩来の限界があった。その象徴的事例として彼の養女であり女優であった孫維世の例がある。彼女は毛沢東の妻江青の激しい憎悪の対象であり(江青が上海で女優をしていた時、不遇だった自分に比べ脚光を浴びていたからだといわれる)、彼女の差し金により孫維世は逮捕され、獄中で拷問され死亡した。その遺骸は全裸で体中傷だらけだったという。しかし周恩来は養女である彼女のために何も尽力できなかった。このような仕打ちを受けても毛沢東に協力し続けた彼を批判する声は多い。
転機となったのが1971年の林彪失脚であった。林彪は毛沢東の後継者とされ、ナンバー2であったが、じきに毛沢東の信頼を失い、毛の暗殺を計画したが失敗、ソ連に逃亡する途中、搭乗機がモンゴルに墜落し、死亡した。これが契機となり、鄧小平が復権、一部幹部の名誉が回復された。周恩来は鄧小平と協力して文革の混乱を収拾しようとした。
さらにその後、周恩来は江青ら四人組との激しい権力闘争を強いられたが、最後まで毛沢東に信任され、実権を握り続けた。75年には国防・農業・工業・科学技術の四分野の革新を目指す「四つの現代化」を提唱し、後の鄧小平による「改革・開放」の基盤を築いた。
周恩来は文革の最中、長時間の紅衛兵との接見や膨大な実務に奔走された。彼は十数時間も執務し続けることも珍しくなかった。これに前述の孫維世の件など激しい心労も加わり、彼の体は病に蝕まれていった。後に周恩来自身が侍医に「文革によって寿命が十年縮まった」と語ったという。
[編集] 死去
1976年、ガンで死去する。彼の死後、文革によって苦しめられていた民衆が周恩来を追悼する行動を起こし、これを当局が鎮圧するという第1次天安門事件が起こった。また、その遺骸は本人の希望で火葬され、遺骨は飛行機で中国の大地に散布された。これらは生前に妻の鄧頴超と互いに約束していたことであった。一説によると、四人組によって遺骸が辱められることを恐れたためという。
[編集] 評価
[編集] 中国人以外による評価
- 1972年のニクソン大統領訪中のお膳立てをしたキッシンジャーは、周恩来について今までにあった人物のなかでもっとも深い感銘を受けた人物の一人にかぞえ、「上品で、とてつもなく忍耐強く、並々ならぬ知性をそなえた繊細な人物」と評している。
- ハマーショルド元国連事務総長は「外交畑で今まで私が出会った人物の中で、最も優れた頭脳の持ち主」と断言している。
- 『周恩来伝』を書いたジャーナリスト、D・ウィルソンは周恩来をケネディやネルーと比較して、「密度の濃さが違っていた。彼は中国古来の徳としての優雅さ、礼儀正しさ、謙虚さを体現していた」と最大級の賞賛をしている。
- また、1954年以来チャーリー・チャップリンとも親交を持ち(ジュネーヴ会議出席の際、1952年からスイス在住だったチャップリンを訪ねている)、彼の作品の一つ「黄金狂時代」の名シーンであるチャーリーが靴を食べる場面を見て、長征の際の苦難を思い出し懐かしがったという。
- 日本人でも、周恩来に傾倒した人物は多い。『日本人の中の周恩来』という寄稿集もある。
[編集] 中国人による評価
- 鄧小平は周恩来が文革期に毛沢東に妥協して走資派(実権派)粛清に協力したことに複雑な胸中だったといわれるが、記者に対してはこう語っている。「彼(周恩来)は同志と人民から尊敬された人物である。文化大革命の時、我々は下放(地方、農村での思想矯正)したが幸いにも彼は地位を保った。文化大革命のなかで彼のいた立場は非常に困難なものであり、いくつも心に違うことを語り、心に違うことをいくつもやった。しかし人民は彼を許している。彼はそうしなければ、そう言わなければ、彼自身地位を保てず、中和作用をはたし、損失を減らすことが出来なかったからだ」
[編集] 雨中嵐山
周恩来が、日本留学時に京都の嵐山で失意のうちに作った「雨中嵐山」の詩を刻んだ石碑が、嵐山公園(亀山公園)内にあり、今では日中友好のシンボル、中国人観光客の観光スポットとなっており、中国要人が関西を訪問した際も大抵ここを訪問する。碑文は廖承志中日友好協会会長が1978年に揮毫したものによる。
[編集] 関連項目
|
|
|
カテゴリ: 中華人民共和国の政治家 | 共産主義 | 1898年生 | 1976年没 | 中国のフリーメイソン