クラウス・フォン・シュタウフェンベルク
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クラウス・フィリップ・マリア・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク(Claus Philip Maria Schenk von Stauffenberg, 1907年11月15日 - 1944年7月21日)は、第二次世界大戦中のドイツ陸軍大佐。ヒトラー暗殺計画の実行者の一人。
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[編集] 生い立ちと軍歴
バーデン=ヴュルテンベルク州のウルム近郊のイェティンゲン(Jettingen)に生まれた。父親は旧ヴュルテンベルク王国の名門貴族で、カトリック教徒のアルフレート・シェンク・グラーフ・フォン・シュタウフェンベルクである。母親はカロリーネ、旧姓フォン・ウクスクル=ギレンバントである。三人兄弟の末っ子で、兄にベルトルトとアレグサンダーの双子がいる。母方の遠縁にはプロイセン参謀本部の創設者の一人であるアウグスト・フォン・グナイゼナウがいる。シュタウフェンベルクは曾孫にあたる。彼は大学教育を受け文学を志したが、結局軍人を目指すことなった。1926年に彼はドイツ南部のバンベルクの第17騎兵連隊に士官候補生として入営した。1933年にアドルフ・ヒトラーが政権を握るが、保守的な愛国者であるシュタウフェンベルクはナチスのイデオロギーに対して当初反感を抱いてはいなかった。しかし、1938年11月の「水晶の夜」の惨事の後に彼は大きな恥辱がドイツにもたらされたと感じた。ナチスの行為はシュタウフェンベルクの道徳心と正義感に反し、カトリック教徒の彼はユダヤ人政策と宗教弾圧に反感を抱くこととなる。
一方、軍では順調に昇進を果たし、1937年1月1日に大尉に昇進する。彼はエーリッヒ・ヘープナー(Erich Hoepner)の指揮する第1軽師団に配属される。1938年9月ミュンヘン協定に基づきチェコのズデーテン地方に無血進駐する(de)。1939年の第二次世界大戦勃発後、第一軽師団は第6装甲師団と改名され、シュタウフェンベルクはポーランド、フランス、ロシアに転戦する。1941年12月に参謀本部の作戦課に転属し、1943年1月1日に中佐に昇進、その後アフリカ戦線に派遣されるが、かの地で乗車が英軍機に機銃掃射され、左目と右手の指全て、左手の薬指と小指を失った。
[編集] 失望・離反
彼の叔父グラーフ・ニコラス・フォン・ウクスクルは1939年のポーランド侵攻後に彼を反ヒトラー活動に誘う。シュタウフェンベルクは良心と信仰に従い参加に同意した。当初はその地位から運動に貢献できず無力を感じたが、負傷から回復した後ベルリンの国内予備軍司令部(独:Ersatzheer,英: Replacement army,Training army, 国内軍、国民軍、補充軍とも訳される)の参謀長に任命される。反ヒトラー活動の大物の一人フリードリヒ・オルブリヒト(Friedrich Olbricht)将軍の部下となる。国内予備軍は前線への新兵の補充と国内の治安維持を任務、国内有事の対処計画書「ヴァルキューレ作戦」を策定し、同計画はヒトラーから承認されていた。シュタウフェンベルクはヒトラー暗殺後に既定のヴァルキューレ作戦を発動して国内外を掌握する計画を立てていた。
[編集] ヒトラー暗殺テロ未遂事件
シュタウフェンベルクの役割は、当初、国内予備軍司令部から国内外の陸軍部隊に「ヴァルキューレ作戦」を発令して親衛隊やゲシュタポの党機関、政府機関の責任者を拘束することであった。しかし、シュタウフェンベルクしか定期的にヒトラーに近づくことが出来なかった。1944年に大佐に昇進したシュタウフェンベルクは、左手の指が三本しか残っていなかったにもかかわらず、総統大本営でヒトラーを暗殺する役割を承諾した。
1944年7月20日、オストプロイセンの総統大本営「ヴォルフスシャンツェ」でシュタウフェンベルクは爆弾をセットした書類カバンを作戦会議室のテーブルの下に持ち込み、急用を理由に素早く立ち去った。爆弾は予定通り爆発したが、下記の予期せぬ事情から暗殺テロは失敗した。
- 二個の爆弾を準備したが、時間がなく一個しかセットできなかった。
- 当日の気温が高かったため、地下室で行われる予定の作戦会議は地上の会議室で行われた。爆発力を減じた。
- 作戦会議の時間と日付が二度変更された。
- さらにテーブルの下に置かれた書類カバンを足元が邪魔だとブラント大佐がヒトラーの方向に向けてあったカバンを脚部に沿って奥側に押し込んだ。この結果、まともに爆発を受けた四人が死んだが、太い樫の脚部が遮蔽物となり、ヒトラーは爆風から守られ奇跡的に生き残った。
シュタウフェンベルク大佐とヴェルナー・フォン・ヘフテン少尉は88mm砲弾の直撃したような爆発を確認した後、ハインケルHe111でベルリンへと飛び立った。彼らの乗機を撃墜する命令が司令部から出されたが命令は共謀者である空軍士官のフリードリヒ・ゲオルギ(Friedrich Georgi)の手に留められた。
[編集] 政府転覆計画の陰謀者の処刑
ヒトラーは暗殺を免れ、計画の失敗は明白となり、国内予備軍司令官のフリードリヒ・フロム(Friedrich Fromm)上級大将は単独で即決の軍法会議を開き、暗殺事件の関係者を処刑した。シュタウフェンベルク大佐、フリードリヒ・オルプリヒト将軍、ヴェルナー・フォン・ヘフテン少尉およびアルプレヒト・メルツ・フォン・クビルンハイム大佐は、国内予備軍司令部の中庭でその夜遅く銃殺された。フロム将軍は彼らに勲章を着用したままの名誉ある埋葬を許可した。後日、ヒムラーはシュタウフェンベルク大佐の遺体を掘り出し、勲章をはぎ取り、焼却し、灰を野原にばら撒いた。フロム将軍も後日陰謀関係者として処刑された。
彼の兄ベルトルト・グラーフ・シェンク・フォン・シュタウフェンベルクは暗殺計画のもう一方の中心人物であった。ベルトルトは8月10日にローラント・フライスラー(Roland Freisler)によって人民法廷で裁かれ、その日のうちにベルリンのプレッツェンゼー刑務所でピアノ線で絞首刑に処された8人の関係者のうちの1人であった。
今日、クラウス・フォン・シュタウフェンベルクはナチス・ドイツに対する抵抗運動の英雄として賞賛される。戦後、国内予備軍司令部のあったベンドラー街(de)はシュタウフェンベルク街へ改名され、ここに記念館が開設され、ヒトラー抵抗運動の5,000を越える写真や文書が展示されている。暗殺計画に関与した将校達が射殺された中庭には手を鎖でつながれた若者のブロンズ像が象徴として置かれている。
また、シュタウフェンベルク街には国防大臣のベルリン事務所が置かれている(国防省は現在もライン河畔のボンにある)。毎年7月20日ここで外国から賓客を迎え、ドイツ連邦軍の忠誠宣誓式(de)が行われる。ナチス・ドイツでは軍人は「ドイツとドイツ民族の総統であるヒトラーに無条件の忠誠を誓う」と宣誓した。忠誠宣誓の故に軍人の多くはヒトラー暗殺計画に参画しなかった。マンシュタイン元帥の台詞「プロイセン軍人は反逆しない。」は有名である。しかし、今日のドイツ連邦軍では特定の個人ではなく「ドイツ連邦共和国に忠誠を尽くし、ドイツ民族の自由と正義を守ることを誓う」と宣誓する。昇進できないことを条件に忠誠の宣誓を拒否する権利も認められている。
[編集] 残された家族
シュタウフェンベルク大佐は、1933年11月26日にバンベルクでニーナ・フライヘリン・フォン・レルヒェンフェルト(Nina Freiherrin von Lerchenfeld)と結婚した。彼らは5人の子供、ベルトルト、ハイメラン、フランツ=ルートヴィヒ、ヴァレリおよびコンスタンツェをもうけた。長男ベルトルトは戦後ドイツ連邦軍の将軍になった。
妻のニーナは2006年4月2日、ドイツ南部のキルヒラウターで死去した。享年92であった。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
カテゴリ: ドイツ第三帝国の軍人 | 1907年生 | 1944年没