ヒトラー暗殺計画
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ヒトラー暗殺計画(-あんさつけいかく)は、ヒトラーの政権奪取後少なくとも43回企てられた。ナチス政権成立当初は、反ナチスのテロ組織コンスルが、特攻隊員による総統官邸襲撃とヒトラーの爆殺を計画した。
ヒトラー暗殺テロの中でも大規模かつ陸軍上層部で立案された計画は三度あった。
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[編集] 1938年
最初の政府転覆計画は大戦前の1938年にルートヴィヒ・ベック陸軍参謀総長、ヴィルヘルム・フランツ・カナリス海軍大将(国防軍情報部長)を中心に計画された。ヴィッツレーベン元帥も参加していた。ミュンヘン会談で英国政府が譲歩したため戦争が回避され、実行には至らなかった。カナリス提督は、第二次世界大戦終結を前にして1945年春に銃殺されている。
[編集] 1943年
1943年3月13日、東部戦線のスモレンスクに飛来したヒトラーを爆殺しようとヘニング・フォン・トレスコウ少将が計画した。副官のファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ中尉に爆弾をセットしたリキュールの瓶を帰路についたヒトラーの搭乗機に持ち込ませたが、雷管に不具合が生じたため爆発せず失敗、爆弾は密かに回収され計画は明るみに出なかった。
[編集] 1944年:ヴァルキューレ作戦
1944年7月20日、計画の首謀者は陸軍大佐クラウス・フォン・シュタウフェンベルク、ヴィッツレーベン元帥、ルートヴィヒ・ベック上級大将、エーリッヒ・ヘプナー上級大将、エーリッヒ・フェルギーベル中将、ヘニング・フォン・トレスコウ少将を始めとする多くの陸軍将官や、元ライプチヒ市長カール・ゲルデラー、アルフレッド・デルプ神父なども含まれていた。
ヴァルキューレ作戦とは国内有事のために国内予備軍司令部が策定した鎮圧計画の暗号名称である。国内予備軍司令部の参謀長シュタウフェンベルクは、オストプロイセン州のラステンブルクの総統大本営「ヴォルフスシャンツェ」の作戦会議室に時限爆弾を仕掛けてヒトラーを殺害し、次にヴァルキューレ作戦を発令して国内外の党機関、政府機関を制圧する計画であった。成功の暁にはベックが国家元首、カール・ゲルデラーが首相に就任予定されていた。
シュタウフェンベルクと副官のヴェルナー・フォン・ヘフテン少尉は爆弾は予定通り仕掛けたが、予期せぬ状況で失敗した。当日の気温が高かったため、地下室で行われる予定の作戦会議は地上の会議室で行われた。さらにシュタウフェンベルクは二個の爆弾のうち一個しか仕掛けることが出来なかった。また、シュタウフェンベルクが爆弾をセットしたアタッシュケースを邪魔だと陸軍参謀本部作戦課長の副官のブラント大佐が移動させた。このために会議テーブルの分厚い木製脚部が遮蔽物となり、ヒトラーは爆風から守られ奇跡的に生き残った。
シュタウフェンベルクとヘフテンは、爆発を確認した後にベルリンに飛び立った。シュタウフェンベルクはベルリンでヒトラーの生存を知り作戦の失敗を悟った。蜂起軍を指揮する予定だったフリードリヒ・オルブリヒト(Friedrich Olbricht)大将は、ヴァルキューレ作戦を発令するが、時すでに遅しであった。
パリのドイツ軍司令官のフォン・シュテュルプナーゲル (Karl-Heinrich von Stuelpnagel) 将軍はヴァルキューレ作戦の発令を受けて蜂起し、パリ駐屯の親衛隊やゲシュタポを武装解除し、パリを制圧した。しかし、ヒトラーの生存が知らされると、大勢は反転した。
[編集] 余波
軽傷で済んだヒトラーは、その日の深夜ラジオで演説し、暗殺者と黒幕の粛清に乗り出すことを宣言した。
シュタウフェンベルク大佐、オルブリヒト大将、アルプレヒト・メルツ・フォン・クヴィルンハイム大佐およびヘフテン中尉は、その日の夜に国内予備軍司令部のある国防省の中庭で銃殺され、ベック大将は自決した(現在ベルリンの国防省跡に、彼ら五人の名を刻んだ記念碑が建っている)。シュタウフェンベルクとともに計画を主導していたトレスコウ少将は翌日に自殺した。
また、計画への関与を疑われた高官のうち、ギュンター・フォン・クルーゲ元帥は自殺、エルヴィン・ロンメル元帥も自殺を強要された。マンシュタイン元帥は、副官がトレスコウ少将の従兄弟であった関係で計画の存在を知っていたが、難を逃れた。ロンメル元帥やフォン・シテュルプナーゲル将軍をはじめ西部方面のドイツ将官に影響力を及ぼしていた『平和』の著者であったエルンスト・ユンガー大尉は、ヒトラー暗殺計画との関連を追求され軍を解任されている。
事件後の捜査でこの計画に関わったもの多くが逮捕されたが、関与を疑われ逮捕された者は、容疑者と親類縁者を含めた連座拘束による逮捕者を含めて600-700人とされる(しかし、この機会に乗じて行われたナチスの政敵を一掃する動きによる逮捕者を含めるとその数は数千人に上るとみられる)。逮捕者は民族裁判所(de)で裁判長ローラント・フライスラー (Roland Freisler) のもとでの形式的な裁判の後、多くが処刑された。そのうちの何名かはベルリンのプレッツェンゼー刑務所でピアノ線で吊るされる形で処刑された。元々パーキンソン病を煩っていたヒトラーは病状がさらに悪化した上、極度の人間不信に陥った。
また、この事件を契機に国防軍内でもいわゆるナチス式敬礼を行うことになった。その他、それまでは政治的影響を免れていた海軍にも政治将校が配属され、それは前線のUボートにもおよんだ。さらに、「7月20日の裏切り者」のレッテルを貼られることを怖れた将軍達はヒトラーに意見することを止め、ドイツ軍の作戦行動は硬直化することとなったが、反面軍部内の情報セキュリィティーが強化され、連合軍の情報収集活動が困難化した。
暗殺未遂に対するヒトラーの復讐は、大戦終結直前の1945年4月まで続けられたとされている。
[編集] 文献
- Roger Manvell(著)、ノンフィクション、『ヒトラー暗殺事件』、サンケイ新聞社出版局、1972年
- Roger Manvell / Heinrich Fränkel(著)、片岡啓治(訳)、ノンフィクション、『ゲシュタポへの挑戦』、新人物往来社、1973年
- 小林正文(著)、ノンフィクション、『ヒトラー暗殺計画』、中央公論社、ISBN 4-12-100744-1、1984年
- ハンス・ヘルムート・キルスト(著)、松谷健二(訳)、『軍の反乱』、角川書店、1987年、ISBN 4-04-259701-7
- Alexander Stahlberg(著)、マンシュタイン元帥の副官の回顧録、鈴木直(訳)、『回想の第三帝国』、平凡社、ISBN 4-582-37335-6、1994年
[編集] 映画
- 反ナチのカナリス海軍大将を描いたもの
- 「誰が祖国を売ったか(原題:Canaris)」、Alfred Weidenmann 監督、1955年
- 1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件を描いたもの
- 「ヒトラー暗殺(原題:Es geschah am 20.Juli)」、Georg Wilhelm Pabst 監督、1955年
- 「暗殺計画7・20(原題:Der 20.Juli)」、Günther Weisenborn 監督、1955年
- 「オペレーション・ワルキューレ」
[編集] 関連項目
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