クリスティアン・ヴィエリ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
クリスティアン・ヴィエリ(Christian Vieri、1973年7月12日 - )は、イタリア・ボローニャ出身の同国代表、セリエA・アタランタ所属のサッカー選手。
185cm、82kgという屈強な体を武器に相手ゴールに迫る迫力満点のストライカーである。ヘディング、ポストプレーともに完璧であり、そして強烈な左足のシュートで多くの得点を重ねた。そのためか「重戦車」と評される。全盛期は世界最高のストライカーと称されていた。愛称はボボ。イタリアの伝説的なFWルイジ・リーバに「私の現代版」と言われた。寡黙で気難しく記者泣かせの選手といわれていた。フィリッポ・インザーギとは極めて仲が良く(毎日電話で連絡を取り合うほど)、互いに親友であることを公言していたが一時同じ女性に好意を抱いた時期がありその後しばらくは不仲となった。
生まれはイタリアのボローニャ。3歳の時にシドニーに渡り、少年時代はオーストラリアで育つ。本人によると、ラグビーはあまりしたことがなく、陸上競技や水泳で体を鍛えたらしい。サッカーを始めたのは14歳頃から。クリケットの熱烈なファンでもある。
デビューはセリエC1ポラト。様々なチームを転々とした末、イタリア人としては珍しく海外でその才能が花開いた選手である。1997-1998シーズン、スペインのクラブチームアトレティコ・マドリードに所属し、24試合24得点という成績で得点王を獲得。「リーガは生ぬるい」と発言し、自身の故郷に翌シーズンには当時の最高金額でラツィオに移籍、セリエAへ復帰した。 1999年から2004年にかけてインテルに所属。2002-2003シーズンには得点王も獲得した。このシーズンのビエリは23試合で24得点と出場試合数を上回る得点を記録し怪我さえなければ30得点を超えていただろう。2005-2006シーズンからはACミランへ移籍したものの出場機会に恵まれず、2006年1月にASモナコへ完全移籍することとなった。その後、わずか半年でセリエA・サンプドリアへの移籍が決定するも、サッカーに対する情熱が持てないとして現役引退を仄めかしていた。この間、イタリアの人気番組「L'isola dei famosi」に出演予定など様々な噂が流れたが、移籍期限ギリギリの8月29日(現地時間)に古巣アタランタへの復帰が決まった。 契約金は約22万とプロ最低賃金での契約であるが、1ゴールごとにオプション契約として1000万円支払われる予定である。
アズーリの常連選手でもある。代表デビューは1997年3月29日、フランスW杯欧州予選のモルドバ戦。W杯には2度出場し、フランスW杯で5試合5得点、日韓W杯で4試合4得点といずれもエースとして活躍したが、チームはフランスW杯ではベスト8、日韓W杯ではベスト16止まりであった。ドイツW杯では自身3度目のW杯を目指していたが、怪我の影響もあり選考には残らなかった。
父親はイタリア・セリエAでプレーしたサッカー選手のロベルト・ヴィエリ。弟のマッシミリアーノ(マックス)・ヴィエリ(元オーストラリア代表)もサッカー選手。また、祖父も戦前のセリエBでGKとして プレーした経歴を持ち、突如イタリア行きを宣言したヴィエリに父親は無理だと断言したが、この祖父がイタリア挑戦を 勧めたというエピソードが残っている。
[編集] 所属チーム
- ボラト 1989-1990
- トリノ 1990-1992
- ピサ 1992-1993
- ラベンナ 1993-1994
- ヴェネツィア 1994-1995
- アタランタ 1995-1996
- ユヴェントス 1996-1997
- アトレティコ・マドリード(スペイン) 1997-1998
- ラツィオ 1998-1999
- インテル 1999-2005
- ACミラン 2005-2006.1
- ASモナコ(フランス) 2006.1-2006.7
- サンプドリア 2006.7-2006.8(合流前に退団)
- アタランタ 2006.8-
[編集] 関連項目
イタリア代表 - 2002 FIFAワールドカップ | ||
---|---|---|
1 ブッフォン | 2 パヌッチ | 3 マルディーニ | 4 ココ | 5 カンナヴァーロ | 6 ザネッティ | 7 デル・ピエロ | 8 ガットゥーゾ | 9 インザーギ | 10 トッティ | 11 ドニ | 12 アビアーティ | 13 ネスタ | 14 ディ・ビアッジョ | 15 ユリアーノ | 16 ディ・リービオ | 17 トンマージ | 18 デルベッキオ | 19 ザンブロッタ | 20 モンテッラ | 21 ヴィエリ | 22 トルド | 23 マテラッツィ | 監督: トラパットーニ |