グイド・フルベッキ
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グイド・フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck、1830年1月23日 - 1898年3月10日)は、オランダの法学者・神学者、宣教師。お雇い外国人。オランダ・ザイスト市出身。ユトレヒトでエンジニアリングを学んだ。
22歳のときに義理の兄弟の招きでアメリカに渡り、ウィスコンシン州の鋳物工場で働くようになる。1年後にニューヨークに移動、更にアーカンソー州でエンジニアとして働くことを選び、橋や機械類をデザインした。同じ時期に南部の奴隷たちの状態を見て心を痛め、またハリエット・ビーチャー・ストウの兄弟であったヘンリー・ウォード・ビーチャーの教えにも心を動かされる。その後コレラにかかり重症となるが、完治した暁には宣教者になることを誓い、1885年に神学校に入学した。
[編集] 略歴
- 1852年 渡米、ニューヨーク移住。
- 1855年 ニューヨーク州オーバン神学校入学。
- 1859年 上海から海路、長崎に来日。
- 1869年 上京。開成学校教師。
- 1873年 政府法律顧問。
- 1878年 旧約聖書翻訳委員。
- 1887年 明治学院神学部教授。
- 1898年 赤坂葵町で没、享年68。
[編集] 長崎でのフルベッキ
米国オランダ改革派教会から布教のため上海から長崎に派遣されたが、明治維新前の日本では宣教師として活動することができなかった。しばらくは私塾で英語などを教え生計を立てていたが、やがて幕府が長崎につくった英語伝習所(フルベッキが在籍した当時は洋学所、済美館、広運館など呼ばれた)の英語講師に採用された。大隈重信、副島種臣と親交があった。また、オランダで工科学校を卒業した経歴から、工学関係にも詳しく本木昌造の活字印刷術にも貢献している。来日時、長崎の第一印象を「ヨーロッパでもアメリカでも、このような美しい光景を見たことはない」と記している。上野彦馬が撮影した写真が県立長崎図書館に残っている。