コレラ
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コレラ(Cholera)は、コレラ菌(Vibrio cholerae)を病原体とする経口感染症の一つ。日本では「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」(感染症新法)で二類感染症に指定されている。
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[編集] 病原体
コレラ毒素を産生するコレラ菌によって発症する。コレラ菌の中でO1型の大部分とO139型のごく一部がこれに該当する。
コレラ菌は、コンマ状の形態の桿菌で、鞭毛により活発に運動する。従来、アジア型(古典型)とエルトール型が知られていたが、1992年に新たな菌であるO139が発見された。強い感染力があり、特にアジア型は高い死亡率を示し、ペストに匹敵する危険な感染症であるが、ペストと異なり、自然界ではヒト以外に感染しない。流行時以外にコレラ菌がどこで生存しているかについては諸説あり、海水中、人体に不顕性感染の形で存在する、あるいは甲殻類への寄生が考えられる。
最も重要な感染源は、患者の糞便や吐瀉物に汚染された水や食物である。消化管内に入ったコレラ菌は、胃の中で多くが胃液のため死滅するが、少数は小腸に到達し、ここで爆発的に増殖してコレラ毒素を産生する。コレラ菌自体は小腸の上皮部分に定着するだけで、細胞内には全く侵入しない。しかしコレラ毒素は上皮細胞を冒し、その作用で細胞内の水と電解質が大量に流出し、いわゆる「米のとぎ汁様」の猛烈な下痢と嘔吐を起こす。
[編集] 症状
潜伏期間は5日以内。普通は2~3日だが、早ければ数時間である。症状が非常に軽く、1日数回の下痢で数日で回復する場合もあるが、通常、突然腹がごろごろ鳴り、水のような下痢と嘔吐が1日20~30回も起こる。下痢便には塩分が混じる。腹痛・発熱はなく、むしろ低体温となり、34度台にも下がる。急速に脱水症状が進み、血行障害、血圧低下、筋肉の痙攣、虚脱を起こし、死亡する。極度の脱水によって皮膚は乾燥、しわが寄り、「コレラ顔貌」と呼ばれる特有の老人様の顔になる。
治療を行わなかった場合の死亡率はアジア型では75~80パーセントに及ぶが、エルトール型では10パーセント以下である。胃切除がある場合は胃酸による殺菌効果が無いため菌が小腸に達しやすいため危険である。現在は適切な対処を行なえば死亡率は1~2パーセントである。
[編集] 治療方法
コレラにおいて直接の死亡原因になるのは、大量の下痢と嘔吐による水と電解質の損失によっておきる脱水症状である。このため、失われた水と電解質を補給することでこれらによる死亡はきわめて効果的に抑制できる。
患者に意識がある軽症例の場合には、経口輸液(oral rehydration)と呼ばれる方法によって治療が可能である。経口輸液とは、ORS(Oral rehydration solution)と呼ばれる電解質液(水1リットルに対して、ブドウ糖 20g、塩化ナトリウム3.5g、炭酸水素ナトリウム2.5g、塩化カリウム1.5gの割合で溶解したもの)を与え、排泄した下痢と等量を飲ませるものであり、これによって未治療では80%に及ぶ死亡率は1~2%にまで改善され、重篤化しやすい小児でも10%以下になる。患者が意識を失う重症例では、点滴による静脈内輸液で水分と電解質の補給を行う。これらの輸液による治療はコレラ菌そのものの排除には直接つながらず、患者からは大量のコレラ菌が排出されつづけるが、時間の経過によって患者がコレラ菌に対する免疫を獲得すると症状も緩解し、コレラ菌の排出も収まる。
古い時代では現在の様な経口輸液が確立されておらず、専ら食塩を溶かした塩水を飲用させる事でこれに変えた。幕末の『コロリ』流行の際には、蘭法医学に基いた西洋医学書に記されていた塩水飲用法を用いて治療を行った事で、死亡率を著しく低下させる事に成功した事例も残っている。
抗生物質による治療は脱水症状の改善とは無関係であるため、直接の効果的治療にはつながらないが、上記の水分補給と組み合わせることで、治療期間を短縮することが可能である。テトラサイクリン系抗生物質やクロラムフェニコールなどがこの目的で利用されるが、これらに対する耐性菌も増加している。
[編集] 予防
経口感染であるため飲食に気をつける。 ワクチンは現在2種類が存在する。日本では旧来型である、3回接種の不活化ワクチンがあるが、免疫獲得率も有効期間もともに小さく、また近年はそれほど致命的でないエルトール型が流行の大半であるため、特殊な例を除いて一般に接種は推奨されていない。米国でも全く推奨されていないワクチンであることと、効果発現までの期間を考慮すると、渡航前の緊急接種なども現実的ではない。 最近、欧州で開発された新型コレラワクチン(不活化・経口)が存在する。有効率は前者の約50%を遙かにしのぎ、85−97%と報告され、有効期間も2−3年である。同時に、最初の4ヶ月は病原性大腸菌139型(渡航者下痢の責任菌のひとつ)に対する予防効果も実証されている。接種は、1−6週間隔で2回接種。コレラに対しては2−3年に一度の追加接種、病原性大腸菌139型に対しては3−4ヶ月毎に追加接種を受けることができる。米国・日本では未だ未承認だが、欧州をはじめ多くの国で認可されている。このワクチンの抗原はイナバとオガワ株の熱処理抗原、エルトール(イナバ)とオガワ株のホルマリン処理抗原の4抗原を含有する不活化ワクチンである。リコンビナントBサブユニットを主成分とする。 コレラが発生している、または発生する地域への渡航には後者のワクチン接種が賢明である。後者は国内未承認であるが、個人輸入に対応している医療機関で申し込むことにより接種可能である。
[編集] コレラの歴史
コレラの感染力は非常に強く、これまでに7回の世界的流行(コレラ・パンデミック)が発生し、2006年現在も第7期流行が継続している。
アジア型は古い時代から存在していたにもかかわらず、不思議なことに、世界的な流行(パンデミック)を示したのは19世紀に入ってからである。コレラの原発地はインドのガンジス川下流のベンガルからバングラデシュにかけての地方と考えられる。最も古いコレラの記録は紀元前300年頃のものである。その後は、7世紀の中国、17世紀のジャワにコレラと思われる悪疫の記録があるが、世界的大流行は1817年に始まる。この年カルカッタに起こった流行はアジア全域からアフリカに達し、1823年まで続いた。その一部は日本にも及んでいる。1826年から1837年までの大流行は、アジア・アフリカのみならずヨーロッパと南北アメリカにも広がり、全世界的規模となった。以降、1840年から1860年、1863年から1879年、1881年から1896年、1899年から1923年と、計6回にわたるアジア型の大流行があった。しかし1884年にはドイツの細菌学者ロベルト・コッホによってコレラ菌が発見され、医学の発展、防疫体制の強化などと共に、アジア型コレラの世界的流行は起こらなくなった。
だがアジア南部ではコレラが常在し、なお流行が繰り返され、中国では1909年、1919年、1932年と大流行があり、またインドでは1950年代まで持ち越し、いずれも万人単位の死者を出すほどであった。
一方、エルトール型コレラは1906年にシナイ半島のエルトールで発見された。この流行は1961年から始まり、インドネシアを発端に、発展途上国を中心に世界的な広がりを見せており、1991年にはペルーで大流行が発生したほか、先進諸国でも散発的な発生が見られる。1992年に発見されたO139菌はインドとバングラデシュで流行しているが、世界規模の拡大は阻止されている。
[編集] 日本におけるコレラ
日本に初めてコレラが発生したのは、最初の世界的大流行が及んだ1822年(文政5年)のことで、それ以前にはコレラは見られない。朝鮮半島を経由したか、琉球からかは明らかでないが、九州から始まって東海道に及んだものの、いかなる理由からか、箱根を越えて江戸に達することはなかった。
2回目の世界的流行時には波及を免れたが、3回目は再び日本に達し、1858年(安政5年)から3年にわたり、全国を席巻する大流行となった。いわゆる「安政コレラ」で、江戸だけで10万人が死亡したといわれる(この死者数については、過大である、信憑性を欠く、との説もある)。1862年には、残留していたコレラ菌により3回目の大流行が発生、56万人の患者が出て、江戸では7万3000人が死亡した。以後、明治に入っても2~3年間隔で万人単位の患者を出す流行が続き、1879年、1886年には死者が10万人台を数えた。 1890年には日本を訪問していたオスマン帝国(現トルコ)軍艦、エルトゥールル号の海軍乗員の多くがコレラに見舞われた。1895年には軍隊内で流行し、死者4万人を記録した。
このような状況が改善され、患者数も1万人を切ってコレラの脅威が収まるのは1920年代になってからである。その後は、第二次世界大戦敗戦の混乱期にアジア地域からの引揚者により持ち込まれて560人の死者を出した例や、1977年に和歌山県下で感染経路不明のエルトール型の集団発生があったほか、海外からの侵入による孤発例が時折見られる。
[編集] 名称
コレラという名前は、ヒポクラテスが唱えた四体液説の中の一要素である、黄色胆汁を意味するcholeに由来する。四体液説では人間の体液を四元素説に対応した四種類(血液、粘液、黄色胆汁、黒色胆汁)に分類したもので、黄色胆汁は四元素のうち「火」に対応した、熱く乾いた性状を持つものと考えられていた。コレラは当初、この性状に合致する熱帯地方の風土病だと考えられており、また米のとぎ汁様の下痢が胆汁の異常だと考えられたことから、この名がついた。
日本では、最初に発生した文政コレラのときには明確な名前がつけられておらず、他の疫病との区別は不明瞭であった。しかしこの流行の晩期にはオランダ商人から「コレラ」という病名であることが伝えられ、それが転訛した「コロリ」や、「虎列刺」「虎狼狸」などの当て字が広まっていった。それまでの疫病とは違う高い死亡率、激しい症状から、「鉄砲」「見急」「三日コロリ」などとも呼ばれた。
[編集] 余談
[編集] 参考文献
- 「細菌の逆襲」吉川昌之介 中公新書
- 「日本人の病歴」立川昭二 中公新書
- 「病気の社会史」立川昭二 NHKブックス、その他多数