グナエウス・ポンペイウス
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グナエウス・ポンペイウス(Gnaeus Pompeius Magnus, 紀元前106年9月29日 - 紀元前48年9月29日)は、共和政ローマ末期の軍人であり政治家。三頭政治の一頭。息子はセクストゥス・ポンペイウス。
グナエウス・ポンペイウス・ストラボの息子として紀元前106年に生まれた。前83年に自らの領地で徴募した3個軍団相当の兵を引き連れて民衆派を打倒すべくブリンディシに上陸したルキウス・コルネリウス・スッラに合流し、スッラを大変喜ばせている。その後スッラの元で頭角を現し若いながらも反スッラ派の重鎮として活躍する。スッラ派によるイタリア制圧が終わった後は25才でしかないにもかかわらずアフリカに逃げた反スッラ派鎮圧の総司令官を任されその大役を見事に果たす。スッラはその功績を認め、ポンペイウスに凱旋式を許す。この時期スッラは冗談でポンペイウスの事をマグヌス(偉大なる者)と呼んだりしている。その後もスッラ派の将軍として縦横無尽に活躍し、紀元前71年にはスペインのセルトリウスの反乱を鎮圧、紀元前67年に海賊討伐、前66年からはミトリダテス戦争を指揮。東方におけるローマの支配体制を確立し、パレスティナまでをローマの支配域とした。この時期から自分でもポンペイウス・マグヌスと称するようになる。
共和政の枠を越えた例外的な出征を繰り返し前61年に三度目の凱旋式を挙行すると、元老院はポンペイウスを警戒するようになった。ミトリダテス戦争に勝利して帰国したポンペイウスに対して元老院は支配地域の再編成をなかなか認めなかったりポンペイウスに従って遠征してきた兵士達の退職金(この当時では土地給付が多かった)を支払わなかったりとポンペイウスの面子を潰すような事を行う。その結果今までスッラ派、即ち元老院派として見られていたのにもかかわらず紀元前60年にガイウス・ユリウス・カエサルが提案した三頭政治にマルクス・リキニウス・クラッススと共に参加し、元老院に代わってローマの政界を支配した。ポンペイウスは当時妻を離婚して浮いたため独身であり、同盟を確かなものとするためカエサルの娘ユリアと結婚している(離婚したのは妻のムチアがカエサルと浮気したからなのだが)。
クラッススがパルティア攻略中に戦死し、三頭政治が崩壊すると、今度は元老院保守派に担がれてカエサルと対決した。紀元前52年、クロディウス暗殺によって頂点に達したローマの政治・治安の混乱から回復するため、先例のない単独の執政官に任ぜられ(共和政維持の最強硬派、小カトーの提案による)、その後ポプラレス(民衆派)のカエサルの独裁的傾向を恐れた元老院に支持されて、オプティマテス(閥族派)の中心となる。優れた将軍であるポンペイウスを味方につけて気が大きくなったのか、元老院はガリアを平定し次の年の執政官職を狙っていたカエサルに対して強硬な態度を取る。元老院派今まで数多くの反元老院派を葬ってきた伝家の宝刀とも言える元老院最終勧告をカエサルに対して発し、属州総督解任と本国召還を命じた。もし召還に応ずればカエサルが破滅するのは明らかだったが、応じなければ国家の敵とみなされポンペイウス率いる「正規軍」に攻められるのもまた明らかだった。カエサルは、ルビコン越えを決意する。
カエサルが国法を破ってルビコンを越えると思っていなかったポンペイウスや元老院はこの行為に意表をつかれた。無防備なローマにいることを嫌ったポンペイウスは兵を集めつつ南に逃げ、最終的にはイタリアを捨ててギリシャに渡っている。また、カエサルを恐れた多くの元老院議員たちもポンペイウスを頼ってギリシャに逃れた。その中にはのちにカエサル暗殺を決行するマルクス・ユニウス・ブルートゥスも加わっていた。この時点でカエサルの支配下にあった地域はガリア全域とイタリア本国のみで、当時ローマの支配下にあったその他の地域(スペイン、アフリカ、小アジア、それにギリシャ)は全てポンペイウスの支配下にあった。カエサル軍はスペインを平定することに成功したもののアフリカで敗れ、カエサルはポンペイウスの地盤を切り崩すよりポンペイウスとの決戦を選び、ギリシャに上陸する。ポンペイウスもそれを知って軍を率いてカエサルを迎え撃った。前哨戦とも言えるドゥラキウムの戦いでは勝利を収めたものの決戦であったファルサロスの戦いでカエサルに完敗を喫し、逃れた先のエジプトでプトレマイオス13世の側近により暗殺された。
彼の長男グナエウスは父の死後も反カエサルを貫き、最後はアフリカで討たれた。次男セクストゥスも戦い続けたが彼の場合はカエサルより長生きし、カエサルの後を継いだアウグストゥスによって討たれている。