執政官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
執政官(しっせいかん、consul、コンスル)は、古代ローマでの政務官の職名。「執政官」の他に訳語として統領を用いることもある。
目次 |
[編集] 概要
都市ローマの長であり、共和政ローマの形式上の元首に当たる。元老院が候補者を選び、ケントゥリア民会で選任される。絶対的な権力であるインペリウムの保持者であったが、元老院の権威は絶大であり、首都で行使される執政官の権力は元老院の強い意向を受けた。任期は1年で、元来再選は許されなかったが、次第に再選も許されるようになった。毎年1月1日に就任する(紀元前153年より前は3月1日)。定員2名。2名としたのは、独裁を防ぐためであり、それ以前の王政が復活するのを防ぐ意味もあった。ラテン語の consulus は「共に歩く者」を意味する。1月1日に就任する執政官は、正規執政官と呼ばれる。執政官が任期中に死亡すると後任が選挙によって選ばれる。この執政官はとくに補充執政官(consulus suffectus, 略して cons. suff.)と呼ばれる。
古代ローマでは、正規執政官の名を書くことで、その年を表した。以下に例示する。
- 「執政官 Publius Cornelius Scipio AfricanusとPublius Licinius Crassus が治めた年」(西暦では紀元前205年に相当)
執政官ほかインペリウム保持者には、先導警士(リクトル)が付く特権があった。このリクトルはファスケス (fasces) と呼ばれる、斧の柄の周りにを棒を束ねたものを捧げ持ち、これはインペリウム保持者であることを示す権威の標章であった。このファスケスは現代イタリア語ではFascio(ファッショ)で、ファシズムの語源ともなった。
[編集] 歴史
執政官が初めて置かれたのは、伝説では共和政へ移行された紀元前509年と信じられている。しかし初期のローマ共和国史は伝説の域を出ず、また執政官も連続して置かれたわけではなかった。戦時において選出される執政官には、軍事的才能と名声が重んじられたが、その権限ゆえに執政官の選挙は常に政治的な関心を集めた。初期には執政官は貴族(パトリキ)のみに独占され、紀元前366年はじめて平民(プレブス)が執政官となったが、それまでに執政官の選定はしばしばこの時代のパトリキ、プレブスの党争の原因となり、このような対立を避けるために共和政ローマの一時期執政官は一時休職とし、暫定的に6人までの執政官格軍司令官という官職が設置され、またたびたび元老院によって独裁官が置かれることがあった。対立が緩和されリキニウス・セクスティウス法が公布されると、ふたたび執政官が最高位官職となった。
共和政を廃し帝政に移行した後も2名ずつ執政官は置かれ続け、皇帝やその後継候補者が就く栄職として残った。しかし541年、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世によって官職としては廃止され、名誉的な爵位の名前(7世紀にギリシャ語が公用語になって以降は、ギリシャ語の「ヒュパトス」)として残るのみとなった。
執政官の名は後の歴史にも幾度か用いられている。例えば古代ローマへの強い憧憬のもとにあった革命前後のフランスでは、ブリュメールのクーデター後に成立した政府の首班にconsul(執政、または統領)の語が使われている。この他、領事官にconsulの名が残っている。