ケーリー・グラント
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ケーリー・グラント(Cary Grant、1904年1月18日 - 1986年11月29日)は、イギリス生まれのアメリカ人俳優。
彼はスマートな主演男優の典型であり、ハンサムなだけでなく機知に富み魅力的であった。
[編集] 生涯
グラントはアーチボルド・アレグサンダー・リーチ(Archibald Alexander Leach)としてイギリスのブリストルで生まれた。彼の幼年期は混乱して不幸な物であった。母親は彼が九歳のときに精神疾患が原因で行方不明となり、父親は彼に真実を話さなかった。グラントは二十年後に母親がまだ生存していたことを知った。
母親の失踪はグラントの生活での女性関係の危険性と私生活における秘密主義に影響し、それはまた彼の虚勢となり、魅力となった。そのような特質は彼の演技に直接現れ、アルフレッド・ヒッチコックによる様々な映画やミスター・ラッキーのお涙頂戴物を形作った。 グラントはその不幸な幼年期の経験から賞賛と注目を渇望するようになり、人々の目を引きつける新しいペルソナを創り上げた。1918年にブリストルのフェアフィールド・スクールから女子トイレでの出来事によって放校処分を受けた後、彼はボブ・ペンダー演劇一座に加わった。グラントは一座と共に二年間のアメリカ公演旅行を行った。一座はイギリスに戻ったが、彼はアメリカに留まった。彼は俳優として自立し、上流階級のアクセントを混ぜたそのユニークなアクセントと人物像を作り出した。ブロードウェーコメディにおける小さな成功の後、彼は1931年にハリウッドでの仕事を得、「ケーリー・グラント」の芸名を使い始めた。1932年に彼はランドルフ・スコットと出会い、12年間共同生活を行い友情を深めた。マーク・エリオットの様な幾人かの伝記作家は彼らの関係が性的なもので、グラントがゲイだったと主張した[1]。1942年6月26日に彼はアメリカに帰化し市民権を得る。
数年後に裕福な社交界の名士で大富豪であったバーバラ・ハットンと結婚した。グラントは二度目の結婚、バーバラは三度目の結婚であった。グラントは彼女の息子、ランス・レベンスローの義理の父親となり、その生涯に影響を与えた。バーバラとの結婚により、「コニーアイランドのアイスクリーム売りが億万長者になった!」とゴシップ紙に書かれ、「私が貧しい育ちだからこんなことを書かれるのか。」と衝撃を受けた。四年で結婚生活は終わったが、その間、バーバラに支払いを頼ることは一切しなかった。生涯で7回結婚したバーバラに後年、「私の資産を当てにしなかったのは、ケーリー・グラントだけ。そして、私の資産ではなく『私自身』を見てくれた男性も彼だけだった。」と言わしめた。
ロッセリーニとの結婚に破れ、ハリウッドに復帰したイングリッド・バーグマンを、空港で出迎えたのは彼だった。
俳優のローレンス・オリヴィエとは同じイギリス人の誼で長年、親交があった。グラントは『スター』、ローレンス・オリヴィエは『演技派』、と俳優としては別々な道を歩んだ2人だが、ローレンス・オリヴィエはグラントのことを『映画が始まってすぐに、演出に頼らず、観客に「この人のようになりたい!」と思わせることが出来る唯一の俳優』と評し、賛辞を送っている。
スターでありながら大変な倹約家で、レストランではなく撮影所内の食堂で食事した。また、撮影でホテル住まいになると、会社が用意した高級ホテルをキャンセルし、格下の普通ランクのホテルに滞在し、その宿泊料の差額をきっちり要求した。
[編集] 主な主演作
- ブロンド・ヴィナス (1932)
- 不思議の国のアリス (1933)
- 素晴らしき休日 (1938)
- 赤ちゃん教育 (1938)
- ヒズ・ガール・フライデー (1940)
- 汚名 (1946)
- 泥棒成金 (1954)
- めぐり逢い (1957年)
- 北北西に進路を取れ (1959)
- ミンクの手ざわり (1962)
- シャレード (1963)
[編集] 外部リンク
- Carygrant.net — fan site with filmography etc.
- Cary Grant's IMDb filmography
- Autobiography
カテゴリ: アメリカ合衆国の俳優 | 1904年生 | 1986年没