サウード家
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サウード家(آل سعود Āl Saʿūd)は、サウジアラビアの王家。アラブ人のアナザ部族に属する。サウジアラビアの英語名に含まれるSaudi、アラビア語名に含まれるالسعودية (al-Suʿūdīya) は、いずれも「サウード家の」という意味である。
元来はアラビア半島中部のディルイーヤの支配者だったが、18世紀中頃のムハンマド・イブン=サウードのとき、イスラームの純化を唱えるムハンマド・イブン=アブドゥルワッハーブと盟約を結んで、ワッハーブ主義の保護者となる代わりにワッハーブ派勢力の世俗支配者としての正統性を認められて、勢力を拡大した。ムハンマドの興した第1次サウード王国は、マッカ(メッカ)・マディーナ(メディナ)を征服し、19世紀初頭までにアラビア半島の大部分を支配するまでに成長したが、1818年にワッハーブ主義の拡大を恐れたオスマン帝国とそのエジプト太守ムハンマド・アリーの派遣した討伐軍により首都ディルイーヤが攻略され、崩壊した。
その後、トゥルキー・イブン=アブドゥッラーフがリヤドに移って1824年に第2次サウード王国を復興したがナジュド中南部の小勢力に留まり、1892年にナジュド北部の支配者ラシード家によって首都を奪われてクウェートに亡命した。
1902年に至ってアブドゥルアズィーズ・イブン=サウードがリヤドを奪還してサウード王国を復興し、1921年にはラシード家を滅ぼし、1926年にはヒジャーズからハーシム家のフサインの勢力を駆逐して現サウジアラビアの版図を征服、1932年勅令によりサウジアラビアの建国を宣言した。
サウード家はサウジアラビアにおいて、ワッハーブ主義の保護者として正統性から絶大な地位を持ち、安定した政権を保ちつづけているが、ファハド前国王の即位以来、スデイリー・セブンと呼ばれる国内の有力豪族スデイリー部族の母を持つ国王の同母兄弟が中央政界で力を持っており、異母弟である国王アブドゥッラーなどその他の王族と微妙な関係にある。また、第2代サウード国王から第5代となるファハド国王まで、第2世代と呼ばれる初代アブドゥルアズィーズ国王の子息が年長順に兄弟で継承を続けている。1992年に制定された基本法により、サウジアラビア国王は、初代アブドゥルアズィーズ国王の男系の子孫であることが定められている。初代アブドゥルアズィーズ国王は、数は不確定ながら50人~200人の親であるといわれ、スルタン皇太子を含め存命の第2世代の有力者は1920年代生まれの高齢であるが、末子は1947年誕生である。第3世代となる初代国王の孫の世代の王位継承までの道のりについては不安定要素を孕んでいる。
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