サクラホクトオー
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性別 | 牡 |
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毛色 | 鹿毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1986年4月3日 |
死没 | 2000年3月16日 |
父 | トウショウボーイ |
母 | サクラセダン |
生産 | 谷岡牧場 |
生国 | 日本(北海道静内町) |
馬主 | (株)さくらコマース |
調教師 | 境勝太郎 |
競走成績 | 14戦5勝 |
獲得賞金 | 1億8650万円 |
サクラホクトオーは日本の競走馬。1988年の朝日杯3歳ステークスが主な勝ち鞍である。
[編集] 概要
※年齢は全て旧表記(数え年)にて記載
サクラホクトオーは、父がトウショウボーイ、兄に1988年の日本ダービー優勝馬サクラチヨノオーを持つことからデビュー前から期待されていた。デビュー後はその期待に応え、新馬戦、府中3歳ステークス(当時はオープン特別)、朝日杯3歳ステークスと無傷の3連勝を飾り、翌年のダービー候補となり兄弟制覇も期待された。
翌1989年は兄も勝った弥生賞からの始動となった。しかし、これがケチのつき始めであった。弥生賞では単勝1.4倍と圧倒的な人気となったが、中山競馬場は大雨によって水が浮くほどの不良馬場となっていた。レースが始まるといつものように後方に付けたが、その後全く伸びず16頭立て12着と惨敗してしまう。続く皐月賞ではなんとか好走をと期待され3.0倍の1番人気に推されたが、レース当日の朝まで雨が降りまたしても不良馬場となってしまい、加えてサクラホクトオーの馬番は大内枠1番と、皐月賞においては圧倒的に不利(皐月賞が行われる時期の内ラチ沿いの馬場は「ボコボコ」と言えるほど荒れる傾向にあるため)とされる馬番だったことも災いし、20頭立ての19着(1頭競走中止しており、事実上最下位負け)とまたしても惨敗を喫してしまう。
目標でもあった日本ダービーでは単勝9.9倍の5番人気にまで評価が落ちてしまう。ただ、この年の日本ダービーの一番人気はロングシンホニーの6.0倍であったように完全に人気が割れており、ホクトオーで今度こその思いがファンにもあった。しかし良馬場で行われた日本ダービーも内にササる(突然内側に斜行する)などでウィナーズサークルの9着と惨敗してしまい、評価はダービー候補から早熟の短距離馬と大暴落してしまった。
夏は休養にあて、再起を図るべく秋はセントライト記念からスタートした。やや重馬場、春の惨敗などもあって人気はなかったがここは無難に快勝し再び菊花賞候補となった。
菊花賞はまだ半信半疑ということもあり5番人気であった。レースが始まるとサクラホクトオーは馬場の切れ目に驚いて外ラチぎりぎりまですっ飛んでしまうという大珍プレーを犯してしまった。それでも勝ったバンブービギンとは0.4秒差の5着となり、まともに走れればGIを勝てるという能力の高さを見せ付けた。
その後は有馬記念をイナリワンの3着と好走、翌1990年もアメリカジョッキークラブカップを制し、続く産経大阪杯、天皇賞(春)にも出走したが、ともにスーパークリークに完敗した。脚部不安による1年余りの休養の後、京王杯スプリングカップで復帰し2番人気に支持されるも9着と敗れ、続く安田記念では小島に代わり木藤隆行の騎乗で出走(4番人気)したがダイイチルビーの14着と惨敗。これが最後のレースとなった。結局、GIと縁がなく引退している。上記の通り重馬場が苦手だった上、良馬場の発表であっても出走時には雨が降ってくることが多かったため、当時の競馬ファンからは「雨の嫌いな雨男」といわれた。しかし、勝ち鞍や好走したレースが中山競馬場でのレースが殆どだったことから、中山巧者だったという見方もある。
種牡馬としてはサクラスピードオー(1996年共同通信杯4歳ステークス)を輩出したがその後が続かず、サクラホクトオーは2000年3月16日に腸捻転によりこの世を去っている。墓は北海道静内町の新和牧場に建てられている。