サントメ・プリンシペの歴史
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サントメ・プリンシペ民主共和国の歴史について述べる。
アフリカの西端に位置するサントメ島とプリンシペ島に1469年にポルトガル人が初めて到来した。3年以上、この二つの無人島を探索した後、ポルトガルの航海者たちは、この島々がアフリカ本土への寄港地として好適であると結論した。こうして島はポルトガルの植民地となった。
初めて入植に成功したのはアルヴァロ・カミニャである。カミニャは1493年にサントメ島に入植し、ポルトガル王室から島の所有権を認められた。1500年には同じ条件のもと、プリンシペ島への入植が開始された。初期の入植者はポルトガルからの流刑囚である。そのほとんどはユダヤ人であった。流刑地となった両島で、入植者はほどなく島の火山灰質の土壌が、サトウキビ栽培に好適であることに気付いた。
16世紀初めにはアフリカ大陸から奴隷を入植させサトウキビ農園が設けられ、両島は世界有数の砂糖の産地となった。16世紀半ばにはポルトガルからの入植者は砂糖の輸出業者となった。またサントメ島は1522年に、プリンシペ島は1573年に王領に戻り、ポルトガルの行政機構に編入された。しかし16世紀後半には砂糖の主産地はブラジルに取って代わられた。
19世紀初頭には、カカオとコーヒーの栽培が導入され、農場主が絶大な権力を握り、奴隷を使役するプランテーション経営がなされた。ポルトガルは1876年に公式には奴隷制度を廃止した。しかし栽培にたずさわる労働者は依然として実質的な奴隷制度下にあった。労働者の間には処遇についての慢性的な不満があり、これは1953年の暴動で頂点に達した。バテーパの虐殺と呼ばれるこの事件では、アフリカ人農業労働者が多数、ポルトガル人の支配層により殺害された。
1951年にポルトガル海外州となった。しかし同時期から独立運動が行われ、サントメ・プリンシペ独立運動(MLSTP)がガボンを拠点として活動した。本国ポルトガルで独裁政権が倒れると、その後成立した新政権は海外植民地の放棄を決め、1975年7月12日、サントメ・プリンシペ民主共和国は独立した。MLSTPの指導者であるマヌエル・ピント・ダ・コスタが初代大統領になった。
独立後はMLSTPの一党支配が行われたが、1990年8月の国民投票で多党制移行を決定した。1991年に初めての総選挙が行われた。1996年の総選挙では、MLSTPは野党に転落した。その後は選挙の結果による多数党の交替が平和理に行われている。
2003年7月、政治の腐敗と石油からの収入の配分の不正などを不満とする軍事クーデターが行われたが、協議の後、フラディク・デ・メネデス大統領は職務に復帰した。
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