サン・ピエトロ大聖堂
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サン・ピエトロ大聖堂(サンピエトロだいせいどう、イタリア語:Basilica di San Pietro in Vaticano)はローマのバチカン市国南東端にあるカトリック教会の総本山。サン・ピエトロは「聖ペトロ」の意で、キリスト教の使徒ペトロ(ペテロ)のイタリア語読みに由来する。サン・ピエトロ大寺院、聖ペテロ大聖堂、セント‐ピーター寺院などと表記されることもある。
カトリック教会の伝承によれば、サン・ピエトロ大聖堂はもともと使徒ペトロの墓所があったところに建立されたとされ、キリスト教の教会建築としては世界最大級の大きさを誇る。床面積2万3000平方m。北に隣接してローマ教皇の住むバチカン宮殿、バチカン美術館などがあり、国全体が『バチカン市国』としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
サン・ピエトロ大聖堂はローマの四大バジリカ(古代ローマ様式の大聖堂)の一つに数えられる。四大バジリカとはこのサン・ピエトロ大聖堂とサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂、サン・パオロ・フオリ・レ・ムーラ大聖堂(城壁外の聖パウロ大聖堂)である。さらにサン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(城壁外の聖ラウレンツィオ大聖堂)を加えて五大バジリカと呼ぶこともある。
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[編集] 歴史
[編集] 聖堂の創建
最初の大聖堂は、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世の指示で建設されたバシリカ式教会堂である。ローマの城壁外、ヴァティカーノ丘の異教区墓地にある聖ペテロの埋葬地を覆うように計画された。歴史学的には、ペテロのローマ殉教について確実な資料が存在していないので、建設地がほんとうにペテロの墓地だったかどうかについては古くから反論がある。1950年の声明に先立つ発掘では墓碑と遺骨が発見されているが、これがペテロのものであるという確証はない。また、皇帝ネロの作った競技場が建てられていたという伝承もあるが、発掘では確認できていない。
大聖堂の建設は330年頃に着工され、390年頃までに完成した。一列22本の列柱によって構成された5廊式バシリカは90m×64mの大きさであり、当時すでにヨーロッパ最大の教会堂であった。この初代サン・ピエトロ大聖堂は司教座教会堂ではなく、アプス中央にあるペトロの墓所を聖地として多くの巡礼者を集めたマルティウムであり、古代・中世の教皇の住まいはサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂に隣接するラテラノ宮殿であった。
[編集] ルネサンス期
最初のバシリカ式教会堂は、15世紀中頃には老朽化のため倒壊のおそれもあると指摘され、教皇ニコラウス5世は応急措置として修復工事を行った。 現在見られる大聖堂の建設は、1499年に教皇アレクサンデル6世がサン・ピエトロ大聖堂の改築を思い立ち、1505年に教皇ユリウス2世によって改築の決定が行われたことによって始まる。建築設計競技によって ドナト・ブラマンテが主任建築家に任命され、1506年4月18日に基礎石の設置式典が行われている。ただし、これらの作業に伴う改築決定の勅令や、古い聖堂を壊す契約書といった公式書簡は全く残されていない。このためユリウス2世とブラマンテは、まだ使用に耐えうる旧聖堂破壊の公式な決定をあえて避けたとも考えられている。
ブラマンテの計画案は、現在、フィレンツェのウフィッツィ美術館に納められているが、彼がこの大聖堂について決定した事項について知られているのはこの平面プランと立面を刻印したメダルをおいてほかにない。セバスティアーノ・セルリオが、木造模型ですら未完だったと述べていることから、これ以上のことは、恐らく何も決まってはいなかったと推察されている。1506年の式典に際して、主ドームを支える柱の位置が決定されたが、当初のプランではドームを支えるには全く強度が足りなかったため、のちにアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネによって柱は太くされた。この事実によって推察されるのは、工事全体の規模が、当時の芸術家や職人の把握できる限界を越えていたということである。
ブラマンテの死後、ラファエロ・サンティによって、集中式のプランは長大な身廊をもったラテン十字プラン(バシリカ式)に変更されたことが知られている。これは人員を収容するためという実用的要求に対応するためであり、バルダッサーレ・ペルッツィによって元の集中式に戻されるが、玄関を間延びさせたような妥協案を提示せざるを得なかった。途中ローマ略奪(1527年)による混乱もあって建設は中断したが、オランダのマルテル・ファン・ヘームスケンクが1532年から1535年頃に画いたスケッチによると、このころまでに、主ドームを支える柱と、それに架けられた格間ヴォールトは完成していた。
1530年代に、アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネによって工事が再開され、1546年には、ラファエロ案に基づく新たなプランと模型が提示された。この模型は、ローマのヴァティカーノ美術館に所蔵されているが、ミケランジェロ・ブオナローティによって「牛の放牧場」と揶揄された。サンガッロは当時傑出した芸術家の一人であり、決して大聖堂の主任建築家としての技量が劣っていたというわけではない。このエピソードは、その計画の壮大さと、ひとりミケランジェロのみが、サン・ピエトロの規模に追従することができたということを物語っている。サンガッロの死後、大聖堂の主任建築家にはジュリオ・ロマーノが選出されたが、その数週間後にロマーノも死に、自動的にミケランジェロが就任することになった。
ミケランジェロが主任建築家に任命されたとき、彼はすでにかなりの高齢(72歳)であったが、超人的な能力でこの計画を押し進め、根本的な解決案を作成した。彼はまず、ラテン十字のプランをブラマンテの計画した集中式プランに改編し、主ドームを支える柱の肉厚を増すとともに、サンガッロの行った工事を破壊してまで建物の輪郭を縮小した。こうして彼はドームの横加重を外壁に伝えるとともに、工事の規模自体を縮小して造営工事の進捗を促したのである。造営工事は迅速に進められることになり、ミケランジェロの没年である1564年に、工事はドーム下部構造のドラムにまで到達した。
今日残っているミケランジェロのプランでは、ドームは完全な半球であったが、工事を引き継いだドメニコ・フォンターナは、静止力学的な解法から尖頭型ドームを採用した。これをミケランジェロが承認したか否かについては分かっていない。ともかく、ドームと頂頭は1586年から1593年にかけて、フォンターナとジャコモ・デッラ・ポルタによって完成された。
[編集] バロック期
1603年、大聖堂の工事はカルノ・マデルノに引き継がれ、1605年にはパウルス5世によって、残っていた旧大聖堂を全て取壊し、その跡に身廊とファサードを追加する工事が決定された。ミケランジェロが理想と考えた集中式のプランでは、機能上の理由から批判が噴出したためである。ミケランジェロのプランでは儀式を補佐する空間すら用意されておらず、また多数の信者を収容し、ミサを遂行するには伝統的なバジリカ式プランへの是正が必要であった。
1607年には是正措置に関しての設計競技が呼びかけられ、1608年6月15日から工事が開始された。1612年に祝祷のロッジアにおいて法皇の祝福が行われ、身廊ヴォールト架構は1615年に完成した。最終的な献堂式は1626年に行われている。予定では双塔が建設されるはずであったが、これは下部構造(現在、ファサードの一部と化している)のみが建設されたところで停止した。
内陣の青銅製天蓋付き祭壇は、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニによって 1624年に着手されたものである。これに用いられているねじれ柱は、旧大聖堂のパーゴラに使用されていた円柱を再現したものである。ファサードの最終的なプロポーション、すなわち列柱廊を持つ楕円形広場も彼の手によるものである。4列のドリス式円柱と140体の聖人像で飾られたコロネードは1656年に着工され、1667年に完成した。
[編集] 大聖堂の装飾
サン・ピエトロ大聖堂は、ルネサンスからバロックの時期にかけての巨匠たちが主任建築家を引き継いで建設したものである。また、単なる宗教施設という規模を超えて宗教芸術の宝庫にもなっている。その一方で、この大聖堂の建設費用を調達するためとして贖宥状(いわゆる免罪符)が発行され、ルターによる宗教改革の直接のきっかけになった。
- コロネード中央部の『オベリスク』
- コロネード楕円中心部の噴水 – カルノ・マデルノ、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ
- 『ピエタ』 – ミケランジェロ・ブオナローティ
- 『主祭壇』 – カルノ・マデルノ
- 『大天蓋』 -ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ
- 『パウルス3世墓碑』 – ジャコモ・デッラ・ポルタ
- 『アレクサンデル7世墓碑』 -ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ
- 『ウルバヌス8世墓碑』 -ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- ピーター・マレー著 桐敷真次郎訳『図説世界建築史 ルネサンス建築』(本の友社)
- クリスチャン・ノルベルグ・ジュルツ著 加藤邦男訳『図説世界建築史 バロック建築』(本の友社)
- ニコラス・ペヴスナー他著 鈴木博之監訳『世界建築辞典』(鹿島出版会)