ザイヤーン朝
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ザイヤーン朝(アラビア語 : الزيانيون al-Zayyānīyūn ; بنو زيان Banū Zayyān)は、アルジェリアのトレムセンを中心にマグリブ地方の中部を支配したベルベル人のイスラム王朝(1236年 - 1550年)。アブドゥルワード朝ともいう。
ザイヤーン朝の母体であるベルベル遊牧民のアブドゥルワード族は、ムワッヒド朝に仕えオラン地方に領土を与えられていたが、ヤグムラーサン・イブン=ザイヤーン(アブー=ヤフヤー)のときムワッヒド朝の衰退に乗じ、1236年にスルターンを自称して独立、トレムセンを都として現在のアルジェリア北西部を支配する王朝を開いた。ザイヤーン朝は東はアルジェリア北東部を支配するイフリーキヤ(現チュニジア)のハフス朝、西はフェス(現モロッコ)を支配するマリーン朝という二大勢力に挟まれた弱小勢力で、建国直後からたびたびハフス朝による支配や、マリーン朝の侵攻を受けた。しかし、ナスル朝(グラナダ王国)やアラゴン王国とは友好関係を保ってイベリア半島との間で交流いちじるしく、さらにオランを拠点とするサハラ砂漠の南北交易が流行して経済的には繁栄した。
14世紀の中頃にはマリーン朝によって一度征服され、15年以上にわたってその支配下に入るが、1359年にハフス朝の力を借り、アラブ遊牧民(ベドウィン)と同盟して復興をとげた。しかし続く15世紀にはアラブ遊牧民を巻き込んだ内訌に悩まされ、再び弱体化していった。さらに15世紀の後半にはイベリア半島におけるレコンキスタの進展から非常に多くのムスリム(イスラム教徒)やユダヤ教徒が流入し、不安定要素を増していった。
1492年のグラナダ陥落後は地中海を渡って来寇するスペインの影響力が増大し、1509年ついにオランを占領したスペインの軍門に降ってその属国となった。さらにアルジェで政権を樹立したバルバリア海賊、ワトアース朝を滅ぼした新興のサアド朝が次々に侵入して、16世紀の前半にはめまぐるしく支配者が後退した。1550年にアルジェを属国化したオスマン帝国の軍がトレムセンを占領してアルジェ州に併合し、ザイヤーン朝は滅ぼされた。
ザイヤーン朝の時代に、アルジェリアではベルベル人のアラブ化が進んだと言われる。