アラゴン王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アラゴン王国(アラゴンおうこく)は、中世後期のイベリア半島北東部に存在したキリスト教王国であり、シチリア島を領有するなど地中海国家としても発展した。アラゴン・カタルーニャ連合王国ともアラゴン地中海帝国とも呼ばれる。
目次 |
[編集] 起源
アラゴン王国の起源は、8世紀イスラムのイベリア侵入の際にピレネー山脈に逃げ込んだ西ゴート王国のキリスト教徒たちに始まる。9世紀始め頃から次第に集団的にまとまり、婚姻関係を通じて西方のナバラ王国と合体した。ナバラ王国のサンチョ3世(在位1004年 - 1035年)は大王と称される傑物で、イベリア半島北方のレオン王国のベルムード3世をガリシアへ敗走させ、カスティーリャ伯爵領(カスティーリャ王国の前身)を、1029年、妃のマヨールに継がせるなど、イベリアのキリスト教世界に覇を唱えた人物である。サンチョ大王は死に臨んで、息子たちに遺領を分割した。当時、アラゴン川流域のチャカ(アラゴン語;スペイン語ハカ)を中心とするアラゴンの領域は私生児のラミロ1世に与えられ、王国の称号も許された。アラゴン王国の成立である。12世紀レコンキスタ(再征服運動)の進展とともに、アラゴン王国はより広いエブロ川流域に進出し、1118年にはアルフォンソ1世がサラゴサの町をイスラム教徒から奪回した。サラゴサは現在のアラゴン州の州都となっている。
[編集] カタルーニャとの連合
カタルーニャはアラゴンとは別の起源をもつ地域で、801年にカロリング王朝のルイ敬虔王が南フランスからピレネー山脈を越え、イベリア半島北西部のバルセロナをイスラム教徒から奪回したのが始まりである。フランク王国のスペイン辺境伯領として成立し、住民は南フランスのセプティマニアから来た者が多かった。このためスペインの他地域とは言葉も違い、現在のカタルーニャ語となる。やがてフランク王国の解体によって政治的に自立し、バルセロナ伯領となった。現在のカタルーニャ州の地域である。アラゴン王家はこのバルセロナ伯家と通婚を重ね、1137年に両家の連合が成立した。アラゴン、バルセロナともそれぞれ別のコルテス(議会)をもち、法制度の違いも残ったが、王家は一本化されたわけである。このような実態からカタルーニャ・アラゴン連合王国ということもあるが、ここではアラゴン王国(the Crown of Aragon)としておく。
[編集] 地中海への発展
強大化したアラゴン連合王国はレコンキスタを加速化させ、1229年にはハイメ1世がイスラム教徒が支配するバレアレス諸島を占領し、1238年にはバルセロナの南にあるイスラムのバレンシア王国を征服した。これによってイベリア半島におけるレコンキスタは一応終結し、アラゴン王国はバルセロナを拠点に地中海へ発展していく。1282年シチリア島民がフランス・アンジュー家の圧政に反して蜂起したシチリアの晩鐘事件が起こると、アラゴン王ペドロ3世がシチリア王として迎えられた。これ以後、アラゴン王家が代々シチリアを支配することになる。またサルディニア島の領有権をイタリアのジェノヴァ共和国と争ったこともある。さらにアラゴン王家とは無関係であるが、ビザンツ帝国に傭兵として雇われたアラゴンとカタルーニャの騎士たちが反乱を起こし、1311年から1390年頃までアテネ公国を支配したこともあった。
[編集] ナポリ王国の領有
アンジュー家はナポリでさらに100年近く続いたが、女王ジョアナ2世の代に後継問題がこじれて内紛が起こる。後継者のいないジョアナ2世はフランスのアンジュー公を後継指名したり、アラゴン王国のアルフォンソ5世に指名を変えたりした。気の変わりやすい女王だったわけである。このためナポリ王国の政治に巻き込まれたアルフォンソ5世は本国の政治を妻のマリアに任せて、ナポリを征服し、1443年にはナポリ王を称してイタリアの政治に深くかかわることになる。アルフォンソ5世没後はその弟が本国とシチリアなど旧来の領土を受け継いだが、ナポリの王位はアルフォンソの私生児ドン・フェランテに与えられた。中世ヨーロッパでは私生児が君主になることは珍しく、ローマ教皇はドン・フェランテのナポリ王位を無効とした。これに乗じてヴァロワ朝フランスのシャルル8世が1494年ナポリに侵攻し、ナポリ王位に就く。しかしシャルルの即位は関係諸国の反感を買い、結局ナポリのフランス軍はスペイン軍によって追放され、ナポリはスペインの領地となる。
[編集] アラゴンとカスティーリャの連合
この間、イベリアではアラゴンの王子フェルナンドが1469年カスティーリャの王女イサベルと結婚し、1479年にはアラゴン王国とカスティーリャ=レオン王国の同君連合が成立、スペイン(イスパニア)王国(Spanish Monarchy)が誕生している。ローマ教皇アレクサンデル6世はこのふたりを「カトリック両王」と呼んだ。ただし各地方はそれぞれ独自のコルテス(身分制議会)や法制度を有し、自治制度が尊重された(この自治制度の温存がスペインを近代的国民国家に変質させる最大の足かせともなった)。1492年にはイベリア半島に最後まで残ったイスラム王朝のグラナダ王国も征服され、同年にはクリストファー・コロンブスが新大陸を発見する。もっともアメリカ大陸への進出はもっぱらカスティーリャ人によって担われ、アラゴン人=カタルーニャ人はバルセロナを拠点に地中海で活躍することになる。しかしカスティーリャ王国との連合、スペイン王国の成立はアラゴン王国の地位を低下させる事となった。両国の国力の差は歴然で次第にカスティーリャ王国へと糾合されて行き、さらにスペインの政策が地中海から新大陸へと移った事で地中海への影響力は弱体化し、16世紀以降、西地中海にまで影響力を拡大したオスマン帝国によって地中海帝国の座を奪われて行った。
[編集] 年表
- 1035年 アラゴン王国独立、初代国王ラミロ1世
- 1118年 アラゴン王アルフォンソ1世サラゴサ占領
- 1137年 アラゴン王国とバルセロナ伯領が合体
- 1229年 アラゴン王ハイメ1世、バレアレス諸島を占領(1235年まで)
- 1238年 アラゴン王ハイメ1世、バレンシアを占領
- 1258年 アラゴン王ハイメ1世とカペー朝フランスのルイ9世が条約締結
- 1282年 アラゴン王ペドロ3世、シチリア島を領有(シチリアの晩鐘事件)
- 1343年 アラゴン王ペドロ4世、バレアレス諸島を併合
- 1442年 アラゴン王アルフォンソ5世、ナポリ王国を領有
- 1469年 アラゴン王フェルナンド、カスティーリャ王女イサベルと結婚
- 1479年 アラゴン王国とカスティーリャ王国の同君連合の成立(スペイン王国の成立)