シリモンコン・シンワンチャー
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基本情報 | |
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本名 | マノップ・ランチュオム |
あだ名 | シリモンコン |
階級 | ライト級 |
国籍 | ![]() |
誕生日 | 1977年3月2日 |
出身地 | タイ王国、パトゥムターニー県 |
命日 | |
死地 | |
スタイル | オーソドックス |
プロボクシング戦績 | |
総試合数 | 55 |
勝ち | 53 |
KO勝ち | 31 |
敗け | 2 |
引き分け | 0 |
無効試合 | 0 |
シリモンコン・シンワンチャー (Sirimongkol Singwangcha、ศิริมงคล สิงห์มนัสศักดิ์、1977年3月2日 - )はタイ人プロボクサー、元ムエタイ選手。本名はマノップ・ランチュオム(Manop lamtuom)。タイ国、パトゥムターニー県出身。
本人は闘うことを嫌っており、特に幼少期の体験からムエタイの試合を行うことは非常に嫌いだと公言している。ちなみにマイナー団体WBUのスーパーフライ級の初代王者だが、通例ボクシング界では4大団体(WBA、WBC、IBF、WBO)以外の世界タイトルは極端なレベルの低さから名目通りの扱いは為されないため、この実績が特筆されるケースは稀である。
目次 |
[編集] 来歴
- 1977年3月2日 - タイ国、パトンタニー県で生まれる。父親からムエタイの練習をさせられたため、ムエタイの試合は嫌いになった。ボクシングを始めるまで、シリモンコン・シンマナサック(Sirimongkol Singmanasak)というリングネームでムエタイのリングに上がり続ける。
- 1992年ランシットスタジアム105ポンド級の(ムエタイ)王者になる。その後、ムエタイでは敵がいなくなったのでボクシングに転向、WBCの委員会の一員だったサハソムポップ・シーシムウォングの後援するボクサーになる。
- 1996年8月10日 - WBC世界バンタム級暫定王座決定戦でホセ・ルイス・ブエノに5回KO勝ちし、暫定王座を獲得。
- 1997年1月 - WBC世界バンタム級王者ウェイン・マッカラーがタイトルを返上したことにより、正チャンピオンとして認定される。この時期から、リングネームをシリモンコン・ナコントンパークビューに改称している。
- リングネームが長いからか、試合チケットには「シリモンコン・N」と記載された。
- その後、減量苦を理由に階級を上げる。
- 2002年8月22日 - 辰吉戦以来となる日本のリングに再登場。両国国技館で行われたWBCスーパーフェザー級王座決定戦に出場。長嶋健吾を2回KOに降し、2階級飛び越しての2階級制覇に成功する。翌2003年1月、初防衛に成功するも、同年8月の2度目の防衛戦でヘスス・チャベス(メキシコ)に12回判定負けを喫し、王座陥落。
- 2005年5月14日 - WBC世界ライト級王座次期挑戦者決定戦でマイケル・クラークに7RTKO勝ちし、次期挑戦者になる。
- 2005年7月26日 - タイ、バンコクのウィークエンドマーケットにあった書店を警察が捜査したところ、その際、押収した物件の中にシリモンコンのヌード写真があったことからシリモンコンは逮捕され、裁判所から4ヶ月の拘置、罰金4千バーツ執行猶予2年の判決を下された。本人は写真家に騙されたと語っている。
- 2005年10月 - タイで自伝を出版。
- 2006年5月には米国でWBCライト級暫定王座決定戦に出場し、稲田千賢と対戦する予定であったが、急病のためキャンセル。しかし、その後病気は回復したもようで、7月に試合を行い、3回KO勝ちを収めている。
[編集] 獲得タイトル
- ムエタイ
- ランシットスタジアムミニフライ級王座(1992年)
- ボクシング
[編集] 関連記事
[編集] 外部リンク
- 泰国偏愛 シリモンコンに関する情報等
前王者 WBUは1990年代に設立 |
初代WBU世界スーパーフライ級王者 1995年8月5日 - 1996年 |
次王者 チャオシントン・チャラームスリ |
前王者 ウェイン・マッカラー |
第24代WBC世界バンタム級暫定王者 1996年8月10日 - 不明 |
次王者 シリモンコン・シンワンチャー |
前王者 シリモンコン・シンワンチャー |
第25代WBC世界バンタム級王者 不明 - 1997年11月22日 |
次王者 辰吉丈一郎 |
前王者 フロイド・メイウェザー・ジュニア |
第20代WBC世界スーパーフェザー級王者 2002年8月24日 - 2003年8月15日 |
次王者 ヘスス・チャベス |