ジャンカルロ・ミナルディ
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ジャンカルロ・ミナルディ(Giancarlo Minardi, 1947年9月18日 - )は、かつてのF1チーム、ミナルディチームの創設者、経営者である。
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[編集] 初期の経歴
イタリアのファエンツァにおいてフィアットのディーラーとアジップのガソリンスタンドを営む家庭に生まれ、若い時分に父ジョバンニ・ミナルディを失った。
イタリア国内にてトラックのディーラーとして実業家としてのキャリアを始め、これを軌道に乗せた。
[編集] レース人生の始まり
1968年、21歳の時にレース用にチューンされたフィアット500を購入し、数々のヒルクライムレースにおいて好成績を収めた。この時期からすでにチーム監督の依頼は舞い込んでいたが、フィアット124のラリーレースに出場し、ミナルディはドライバーとしてのキャリアを続けた。
1972年から1974年にかけ、スクーデリア・デル・パッサトレを率いてフォーミュラ・イタリアに参戦し、ジャンカルロ・マルティニを擁し、1972年と1973年の選手権を制した。1975年、この年はチーム名をスクーデリア・エベレストに改名し、以後の2年間はヨーロッパF2選手権において、当時最強の組み合わせだったマーチのシャシーとBMWエンジンでタイトルを争った。
1980年、イタリアにおいてモーターレースのパトロンとして有名な人物であるピエロ・マンシーニの資金援助を受け、ミナルディはミナルディ・レーシング・チームを設立した。このチームを率いて4年に渡ってF2選手権に出場を続け、上々の成績をあげた。
[編集] F1への進出
- ここからはミナルディもあわせて参照のこと。
1985年に自身のチームを順当にF1にステップアップさせた。
当初は中団を前後する形で参戦を続けたが、1991年に高価なフェラーリエンジンを積んだあたりから資金繰りが怪しくなり始めた。
1990年代に入って、世界的な不況ともあいまって中団以下の各チームが資金繰りに苦慮し始めると、ミナルディも、1994年にはスクーデリア・イタリアと合併するなど、影響にさらされるようになっていった。この頃からチームの相対的な戦闘力も低下して後方集団に埋もれ、万年テールエンダーとなっていってしまった。
1996年の終わりには、やむなくフラビオ・ブリアトーレらを含む投資家グループにチーム株式の70%を売却し、ジャンカルロ自身の持ち株比率は14.5%までに低下し、チームは一時的にブリアトーレの所有となった。ほどなくブリアトーレらはミナルディから手を引いたため、1997年から2001年にかけ、ブリアトーレから株式を買い取ったガブリエール・ルミとともにミナルディチームを共同所有する形がしばらく続いた。
2001年になると、チームの財政状況は深刻なものとなり、この年の末に、オーストラリア人実業家のポール・ストッダートに全株式を売却した。これにより、チーム監督としての地位も失ったが、ジャンカルロのレースへの情熱は消えがたく、ストッダートも前オーナーでチーム創設者に対して礼を以ってあたったため、新人ドライバー育成の主任という形でチームに留まることが許された。
その後、2005年の末に、ミナルディチームがオーストリアの飲料会社レッドブルに買収されたことを契機に、F1の世界から去った。ただしモータースポーツの世界には引き続き留まり、2006年にはイタリアのGPレーシングと共にユーロ3000選手権に「Minardi Team」の名称で参戦する予定。マシンのカラーリングも1980年代にミナルディが採用していた黒と黄色のカラーリングである。さらに、2007年にはネルソン・ピケ率いるピケ・スポーツとのジョイントによりGP2へ参戦することになった。
[編集] 評価
[編集] ドライバー育成
ドライバーの育成という点では一目置かれた存在であり、ミナルディチームからデビューしたジャンカルロ・フィジケラ、ヤルノ・トゥルーリ、フェルナンド・アロンソ、マーク・ウェバーは後にF1における有力ドライバーに伸し上っていった。
これらのドライバーは、ブリアトーレ、あるいはルノーの肝いりによって送り込まれたドライバーでもあるため、この評価に対して否定的な見解も一方で存在するが、自動車メーカーも含め有力なスポンサーを持っていたり、下位カテゴリーで優れた才能を示しながら、下位チームでF1デビューして失敗している例が多数あることも事実であり、これら成功例の成功の一因にミナルディの手腕があるという側面は否定しがたい。
[編集] 情熱
俗に“ピラニアクラブ”と呼ばれるようになるほど、F1が金にまみれていく中、私事を省みず、自身の万年下位チームに入れ込み続けたジャンカルロ・ミナルディの情熱には、惜しみない賞賛が送られた。
[編集] 家族
ジャンカルロはF1から去って後もファエンツァに住み続けている。
家族には、妻のマラと、父の名にちなんで名づけた一人息子ジョバンニがいる。
現在はサッカークラブのファエンツァFC(セリエC2)のチェアマンをしている。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- プロフィール - イタリア語のみ。ミナルディ公式サイトより