ミナルディ
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参戦年度 | 1985 - 2005 |
---|---|
出走回数 | 340 |
コンストラクターズタイトル | 0 |
ドライバーズタイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 38 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
F1デビュー戦 | 1985年ブラジルGP |
初勝利 | - |
最終勝利 | - |
最終戦 | 2005年中国GP |
ミナルディ(MINARDI)は、1985年から2005年までF1に参戦していたレーシングチームである。本拠地はイタリアのファエンツァにあった。
目次 |
[編集] 概要
自動車メーカーの支援を受けない、いわゆるプライベーターで、1990年代後半からはF1において自他共に認める最弱のチームであった。参戦以来、表彰台に上ったことは1度もなく、恒例行事と言えるほど毎年のようにチーム存続の危機が囁かれた。「万年テールエンダー」と揶揄されたが、現代のF1では他にみられない家庭的な雰囲気と、F1への愛と情熱を感じさせるチームであると評価する向きも大いにあった。
日本人ドライバーの片山右京、中野信治が最後にF1をドライブしたチームでもある。
[編集] 歴史
イタリアで老舗のフィアットディーラーを営むミナルディ一族のジャンカルロ・ミナルディによって1980年にF2チームとして設立された。
1985年よりF1に進出し、1987年までモトーリ・モデルニのV6ターボエンジンを使用。1988年からフォード・コスワースの自然吸気エンジンユーザーとなる。参戦後の数年間は下位に低迷し、同じイタリアのフェラーリに注目が集中するため常に資金不足に悩まされるも、「ミスター・ミナルディ」と呼ばれたピエルルイジ・マルティニが加入した1988年から徐々に成績を上げ、復帰したピレリタイヤの予選タイヤの性能のよさもあり、中堅チームとして活躍した。
1991年には門外不出といわれたフェラーリV12エンジンを獲得し、F1界を驚かせた。マルティニの4位入賞2回などでコンストラクターズ7位を獲得したが、エンジンの使用料がチームの財政を圧迫し、1年で手放す事となる。また、フェラーリの「横入り」で日本のパイオニアのスポンサードを逃すなど、資金面のつけが後々響くことになる。翌1992年は同じくイタリアのランボルギーニエンジンを搭載するが思うような成果は上げられず、また1年で手放さざるをえなかった。
1993年ごろから資金難が深刻になる。1994年にアンチフェラーリのイタリアF1チーム、スクーデリア・イタリアを吸収合併するも、やはり状況は改善されずスポンサー持込のドライバーを雇うことによってなんとか参戦し続けていた。1995年には無限エンジンの契約を巡りリジェと法廷闘争になり、1996年はベネトンのマネージャー、フラビオ・ブリアトーレが所有権の一部を得てチーム代表となった。以降、ジャンカルロ・フィジケラに始まり、ミナルディはブリアトーレがマネージメントする新人ドライバーのF1デビューの場となった。
1997年にはフォンドメタル社が経営参加し、ガブリエル・ルミが新代表となる。1999年に復帰したデザイナー、グスタフ・ブルナーが優れたアイデアを発揮し、低予算の手本ともいえるマシン開発が評価された。しかし、資金難ゆえに成績に結びつかず、チームには幾度となく身売り話が浮上した。
2001年にはヨーロピアン航空社長ポール・ストッダートがチームを買収し新オーナーになる。ちなみに、創始者ジャンカルロ・ミナルディはストッダートにチームを売却した後もチームに残っていた。ストッダートは、高騰し過ぎたF1参戦費用の改善を求めバーニー・エクレストンや他チーム(特にフェラーリ)首脳に対し過激な発言を繰り返していた。
また、同じくプライベーターF1チームであるジョーダンのオーナーであったエディ・ジョーダンとは対照的に、個人資産を削ってまでミナルディチームを参戦させ続けた。
しかし時代の波にはあらがえず、2005年をもってレッドブル社にチームを売却し、20年に渡るチームの歴史に幕を下ろし、2006年からはレッドブル・レーシングのジュニアチームのスクーデリア・トロ・ロッソとして参戦することとなった。
最後のレースとなった2005年の最終戦である中国GPまでに通算340戦参戦を果たした。これは当時の記録として、フェラーリ、マクラーレン、ロータス、ウィリアムズ、ティレル、ブラバムに次ぐ、歴代7位となるものである。
[編集] F1撤退後
チーム創設者のジャンカルロ・ミナルディは、2006年よりイタリアのGPレーシングと共にユーロ3000選手権(旧・イタリアF3000選手権)に「Minardi Team」の名称で参戦を開始し、「ミナルディ」の名称は引き続きモータースポーツ界に残されることとなった。また2007年からはネルソン・ピケ率いるピケ・スポーツとのジョイントによりGP2参戦を開始する。
またポール・ストッダートは、2006年3月29日に「ヨーロピアン・ミナルディF1リミテッド」の名称で2008年のF1世界選手権へのエントリー申請を行ない、結果却下されたが、その後新たなレース活動をアメリカのチャンプカーに求め、2007年よりミナルディチームUSAの名称で参戦することが決定した。これにより、ヨーロッパではジャンカルロ・ミナルディが率いるミナルディ、アメリカではポール・ストッダート率いるミナルディと、2つのミナルディがそれぞれ異なるカテゴリーでレースに参戦することになる。
[編集] 新人ドライバー発掘
ミナルディチームは上記の通り有力ドライバーを雇えない一方で、新人発掘には優れていた。古くは、ミナルディから計6シーズンを参戦したマルティニをはじめ、アレッサンドロ・ナニーニもミナルディからF1デビューを果たしており、特にミナルディ最後の年となった2005年頃には、マーク・ウェバー、フェルナンド・アロンソ、ジャンカルロ・フィジケラ、ヤルノ・トゥルーリといった有力ドライバーがミナルディからのデビュー組となっている。中でもアロンソは2006年にミナルディ出身ドライバーとして2年連続ワールドチャンピオンを獲得した。若手の登龍門的存在といえるであろう。
また、その他のミナルディ出身者の中には中野信治やステファン・サラザンなど、F1以外のモータースポーツで活躍するドライバーもいる。
[編集] エピソード
ミナルディは弱小チームであるが、それゆえの愛すべきエピソードが数々ある。以下にその一部を紹介する。
- 食事はポディウムの頂点
- ミナルディのモーターホームで供される食事は非常に美味しいことで有名であり、特にパスタとエスプレッソが絶品といわれる。そのため他チームのドライバーがしばしば遊びにくる。あのアイルトン・セナがパスタの常連客だったことは有名である。また、ミナルディはこの食事を振る舞うために、他のチームよりも比較的大きく食材等の運搬などのためのコストを割いていると言われている。そうした基本姿勢が縁になったのかは不明だが、パスタ製造で世界有数の食品企業であるバリラ社の御曹司、パオロ・バリッラ(バリッラ自身はバリラ社の直接の支援は受けていない)がミナルディをドライブ(1989年-1990年参戦)していたこともある。
- "Ferrardi"が本家フェラーリを追い回す
- 1991年、フェラーリエンジンを搭載したミナルディ。第13戦ポルトガルGP決勝で3位を走っていたフェラーリのジャン・アレジをミナルディを駆るピエルルイジ・マルティニが追い回すという展開が見られた。結局アレジがそのまま逃げ切り、マルティニは惜しくも4位でチェッカーを受けた。1985年の参戦開始から現在まで、ミナルディが最も表彰台に近づいたときである。
- 自動タイヤ洗浄機開発
- 2000年のイタリアGPで自社開発した自動タイヤ洗浄機を発表。“SPEED WASH 2000”と銘打ち、他のチームに1台160万円で販売しようとした。しかし評判は「時間がかかる・うるさい・手洗いのほうが圧倒的に綺麗になる」という最悪三拍子で、1台も売れなかった。「そんなものを作る暇があるならマシンの開発をしろ」などと揶揄されたのは言うまでもない。因みに2002年の同GPで改良版が発表された。
- ストッダートによる買収とアロンソの活躍
- 毎年撤退がささやかれているミナルディでも、2000年オフから2001年にかけてが、一番消滅に近づいた時期だった。当時のオーナーガブリエーレ・ルミは必死に売却先を探していたが2001年になっても見つからず、チームスタッフも消滅を察知してかファエンツァを去り始めていた。そこへ救いの手を差し伸べたのが、過去にティレルやアロウズでスポンサー活動を経験し、自らも下位カテゴリーにチームを持っていたストッダートだった。買収時点でもドライバー集めやマシン製作などで開幕からの参戦は危ぶまれていたが、奇跡とも言われる短期間でPS01を製作し、ドライバーにも元ミナルディのテストドライバーでその年はベネトン(ルノー)のテストドライバーとして契約していたアロンソを招きいれた。そのアロンソはしばしばそのベネトンを予選で上回り、決勝では追い掛け回すほどの走りを見せ、その後の活躍への片鱗を見せた。
- シャンパンファイト
- 2002年開幕戦オーストラリアGP、地元でのF1デビューとなったマーク・ウェバーは決勝で5位入賞を果たしミナルディに3年ぶりのポイントをもたらした。オーストラリアは当時のチームオーナーであるポール・ストッダートの地元であったこともあり、正規の表彰式終了後にミナルディのスタッフはわざわざFIAに許可を取って表彰台に上り、シャンパンファイトを行った。
- ポールポジション獲得
- これは2003年第10戦フランスGP予選1回目のことであった。セッションの序盤は、雨で路面はウェット状態だったが徐々に乾いていき、後になればなるほど有利な状況となった。このセッションは獲得ポイントが多い順にアタックするものであり、最後にドライタイヤを履いてアタックしたミナルディのヨス・フェルスタッペンが暫定ポールポジションを獲得。暫定とはいえ、ミナルディにとって初の快挙だった。もうひとりのジャスティン・ウィルソンも2番手タイムをマークしたが、メカニックのミスで重量規定違反となりノータイム扱いだった。しかしこれは土曜予選の出走順を決めるためだけのものであり、結局決勝レースは指定席からのスタートとなった。
- 自慢の2シーターカー
- ミナルディは世界各地で2シーターカーの乗車イベントを開いていた。2001年8月にイギリスで開かれた2シーターの模擬レースでは、元F1チャンピオンのナイジェル・マンセルが後ろにゲストを乗せ参加。Red#5のマシンを駆ったマンセルは、何とゴール寸前前の車に追突。マシンが宙を舞う派手なクラッシュだったが、幸いケガ人はいなかった。マンセルらしいエピソードではあるが、ゲストは肝を冷やしたことだろう。ちなみにこのとき追突されたマシンをドライブしていたのはフェルナンド・アロンソで、レースの勝者はオーナーのストッダートだった。
[編集] 記録
- 出走 - 340レース(歴代7位)
- 総獲得ポイント - 38ポイント
- 予選最高位 - 2位(1990年第1戦アメリカGP)
- 決勝最高位 - 4位(1991年第3戦サンマリノGP、1991年第13戦ポルトガルGP、1993年第1戦南アフリカGP)
- コンストラクターズ・ランキング最高位 - 7位/18チーム中(1991年、6ポイント)
[編集] チーム首脳
- チーム代表(オーナー):
- 1985年 - 2000年 ジャンカルロ・ミナルディ
- 1996年 フラビオ・ブリアトーレ
- 1997年 - 2000年 ガブリエル・ルミ
- 2001年 - 2005年 ポール・ストッダート
- 1985年 - 2000年 ジャンカルロ・ミナルディ
- 若手ドライバー育成担当ディレクター:
- 2001年 - 2005年 ジャンカルロ・ミナルディ
- テクニカル・ディレクター:
- 1985年 - 1988年 ジャコモ・カリーリ
- 1989年 - 1995年 アルド・コスタ
- 1996年 - 1998年 ガブルエル・トレドッツィ(1996年と1997年はマウロ・ジェッナーリと協同)
- 1999年 - 2000年 グスタフ・ブルナー
- 2001年 - 2005年 ガブルエル・トレドッツィ
また、90年代前半まで、チームマネージャーとして日本人・佐々木正が所属していた。佐々木は後に帰国し、日本のレーシングカーコンストラクター・童夢と契約するが、このことより、「童夢の車がミナルディで走るのでは」と噂になったこともある。(童夢側は激怒し、噂を報じた雑誌に抗議している)
[編集] 歴代ラインナップ
- 太字のドライバーはその年ミナルディからデビュー(決勝初出走)。「*」が付いているドライバーは欠場あり。
年 | エントリー名 | 車体*1 | タイヤ*2 | エンジン*3 | ドライバー | ランキング /参戦総数, pts.*4,*5 |
---|---|---|---|---|---|---|
1985年 | ミナルディ・チーム | M185 | PI | フォード (コスワース・DFV V8) モトーリ・モデルニ615-90 V6ターボ |
ピエルルイジ・マルティニ (1カーエントリー) | 12位 / 18 |
1986年 | ミナルディ・チーム | M185B M186 |
PI | モトーリ・モデルニ615-90 V6ターボ | アンドレア・デ・チェザリス アレッサンドロ・ナニーニ |
12位 / 14 |
1987年 | ミナルディ・チーム | M186B M187 |
GY | モトーリ・モデルニ615-90 V6ターボ | アレッサンドロ・ナニーニ エイドリアン・カンポス |
14位 / 16 |
1988年 | ロイス・ミナルディ・チーム | M188 | GY | フォード (コスワースDFZ V8) | ルイス・ペレス=サラ エイドリアン・カンポス (第5戦まで) ピエルルイジ・マルティニ (第6戦以降) |
10位 / 18 |
1989年 | ミナルディ・チーム | M188B M189 |
PI | フォード (コスワースDFR V8) | ルイス・ペレス=サラ ピエルルイジ・マルティニ* パオロ・バリッラ (第15戦) |
11位 / 20 |
1990年 | SCM・ミナルディ・チーム | M189B M190 |
PI | フォード (コスワースDFR V8) | ピエルルイジ・マルティニ パオロ・バリッラ (第14戦まで) ジャンニ・モルビデッリ (第15戦と最終第16戦) |
13位 / 19* |
1991年 | ミナルディ・チーム | M191 | GY | フェラーリ037 V12 | ピエルルイジ・マルティニ ジャンニ・モルビデッリ* ロベルト・モレノ (最終第16戦) |
7位 / 19* |
1992年 | ミナルディ・チーム | M191B M191L M192 |
GY | ランボルギーニ3512 V12 | ジャンニ・モルビデッリ クリスチャン・フィッティパルディ* アレッサンドロ・ザナルディ (第9戦~第11戦) |
12位 / 16 |
1993年 | ミナルディ・チーム | M193 | GY | フォード (コスワースHB 6 V8) | クリスチャン・フィッティパルディ (第14戦まで) ファブリッツォ・バルバッツァ (第8戦まで) ピエルルイジ・マルティニ (第9戦以降) ジャン=マルク・グーノン (第15戦と最終第16戦) |
8位 / 13 |
1994年 | ミナルディ・スクーデリア・イタリア | M193B M194 |
GY | フォード (コスワースHB 6 V8) | ミケーレ・アルボレート ピエルルイジ・マルティニ |
10位 / 14 |
1995年 | ミナルディ・スクーデリア・イタリア | M195 | GY | フォード (コスワースED V8) | ルカ・バドエル ピエルルイジ・マルティニ (第9戦まで) ペドロ・ラミー (第10戦以降) |
10位 / 13 |
1996年 | ミナルディ・チーム | M195B |
GY | フォード (コスワースED V8) | ペドロ・ラミー ジャンカルロ・フィジケラ (開幕戦、第4戦~第10戦) タルソ・マルケス (第2戦と第3戦) ジョバンニ・ラバッジ (第11戦以降) |
10位 / 11 |
1997年 | ミナルディ・チーム | M197 | BS | ハート830 AV7 V8 | 片山右京 ヤルノ・トゥルーリ (第7戦まで) タルソ・マルケス (第8戦以降) |
11位 / 12* |
1998年 | ミナルディ・チーム | M198 | BS | フォード (コスワースP6 V10) | 中野信治 エスティバン・トゥエロ |
10位 / 11 |
1999年 | フォンドメタル・ミナルディ・フォード | M01 | BS | フォード (コスワースVJ V10) | ルカ・バドエル* マルク・ジェネ ステファン・サラザン (第2戦) |
10位 / 11 |
2000年 | テレフォニカ・ミナルディ・フォンドメタル | M02 | BS | フォンドメタル (コスワースVJ V10) | マルク・ジェネ ガストン・マッツァカーネ |
10位 / 11 |
2001年 | ヨーロピアン・ミナルディ・F1 | PS01 PS01B |
MI | ヨーロピアン (コスワースVJ V10) | フェルナンド・アロンソ タルソ・マルケス (第14戦まで) アレックス・ユーン (第15戦以降) |
11位 / 11 |
2002年 | KL・ミナルディ・アジアテック | PS02 | MI | アジアテック AT02 V10 | マーク・ウェバー アレックス・ユーン* アンソニー・デビッドソン (第13戦と第14戦) |
9位 / 11 |
2003年 | ヨーロピアン・ミナルディ・コスワース | PS03 | BS | コスワースCR-3 V10 | ヨス・フェルスタッペン ジャスティン・ウィルソン (第11戦まで) ニコラス・キエーサ (第12戦以降) |
10位 / 10 |
2004年 | ミナルディ・コスワース | PS04B | BS | コスワースCR-3L V10 | ゾルト・バウムガルトナー ジャンマリア・ブルーニ |
10位 / 10 |
2005年 | ミナルディ・コスワース | PS04B PS05 |
BS | コスワースTJ2005 V10 | クリスチャン・アルバース パトリック・フリーザッハー (第11戦まで) ロバート・ドーンボス (第12戦以降) |
10位 / 10 |
- *1 車体:1980年代の車体形式番号について、日本では「M185」のように数字3桁で、その他の国では「M85」のように数字2桁で書く傾向がある。
- *2 タイヤ:PI:ピレリ、GY:グッドイヤー、BS:ブリヂストン、MI:ミシュラン、と、それぞれ略記している。
- *3 エンジン:1985年は開幕戦と第2戦のみフォード・コスワースDFVエンジンを使用し、第3戦以降はモトーリ・モデルニに変更した。
- *4 参戦総数:1990年は19チームがエントリーしたが、ライフが全戦予備予選落ち(途中撤退)、コローニが全戦予備予選/予選落ちしているため、決勝を走ったのは17チームである。1991年もエントリーは19チームだったが、コローニが全戦予備予選落ち、実質的には18チームである。同様に、1997年は12チームがエントリーしたが、復活参戦のローラが開幕戦で予選落ちして決勝を一度も走ることなく撤退したため、決勝を走ったのは11チームのみである。
- *5 順位:無得点に終わった年については、デッドヒート制により、順位を求めている。無得点の年を最下位タイと考えず、かつ1997年を除外すると、ミナルディがF1で最下位となった年は2001年、2003年、2004年、2005年の4回である(史上最多)。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
[編集] 公式サイト
[編集] ファンサイト
- ForzaMinardi.com - 英語
- ミナルディ中毒110番 - 日本語