ジャン=ポール・ベルモンド
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ジャン=ポール・ベルモンド(Jean-Paul Belmondo、1933年4月9日 - )は、フランスの俳優。その演技力には定評があり、シリアスなドラマからアクション・コメディまで、出演映画は幅広い。20世紀後半のフランスを代表する俳優の一人。実子のポール・ベルモンドは、元F1ドライバー。
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[編集] 経歴
[編集] 少年時代
1933年4月9日パリのセーヌ郊外ヌーイで生まれる。父のポール・ベルモンドは、フランス美術アカデミーの会長もつとめた彫刻家で画家、母も画家だった。
子どもの頃はよく遊んだものの、体が弱く、静養のために田舎の農家に預けられる。健康を取り戻して家に帰ってからは、サッカーに熱中し、ゴールキーパーを担当。15歳の時にボクサーになる夢を見たことをきっかけに、今度はボクシングに熱中する。両親に無断でボクシング・クラブに入り、練習を積むが、父に反対されてボクサーになる夢は果たせなかった。
[編集] コンセルバトワール時代
1949年、16歳のベルモンドは演劇に興味を持ち始め、コンセルヴァトワールの入学テストを受けるも落選。しかし、別の演劇学校で学び、コンセルバトワールに入る準備を始めた。
1950年7月3日、パリの病院を巡回する一座のメンバーとして、初舞台に立つ。演目は『眠れる森の美女』で、ベルモンドの役は王子様だった。その後ピレネー地方での夏期巡業にも参加。ここでコメディアンのギィ・ブドスと知り合った。
翌1951年に念願のコンセルヴァトワール入りを果たし、アルバイトをしながら演技を学ぶ。その合間に芝居や映画を見て回った。やがて舞台に出演する機会を得たベルモンドは、1953年には代役ながら主役をつとめることとなる。またこの年に、ルネ・コンスタンス(愛称エロディー)と結婚、翌年には子供が生まれた。
その後も舞台を続けて経験を積むにつれ、次第に演技派との評価が高まってきた。1956年7月1日にコンセルヴァトワールを卒業。このころには演劇批評家からも注目されるようになり、卒業直後の公演では優秀な賞を獲得した。
[編集] 映画スターとなる
演技力を高く評価されたベルモンドを、映画界も無視していなかった。1957年に端役で映画出演するようになる。このうちマルク・アレグレ監督の『黙って抱いて』には、やはり無名時代のアラン・ドロンも出演していた。1958年にはジャン=リュック・ゴダール監督の短篇映画『シャルロットと彼女のジュール』に出演。ちなみにこの映画撮影後ベルモンドが兵役に出てしまったので、ベルモンドの声はゴダール自身が吹き込んでいる。
パリに戻った1959年、ベルモンドはクロード・シャブロル監督『二重の鍵』に出演する。これまでのチョイ役に比べると重要な役で、その存在感を示したベルモンドは映画でも注目された。
そして同年、ふたたびジャン=リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』に主演。ヌーヴェルヴァーグの代表作として大ヒットするとともに、ベルモンドを一躍映画スターの座に押し上げた。こうして、年に数本の映画に出演するようになる。それらはドラマ性の高いシリアスなものが多く、成功した作品ばかりではないが、ベルモンドは着実な演技力に支えられて、ヤクザから貴族に至るまでの幅広い役をこなした。
[編集] アクション・スターとして
1963年、ジャンヌ・モローと共演した『バナナの皮』あたりから、出演作品の傾向が変わってくる。これはいかさま師と別れた女房がくり広げるドタバタ喜劇だったが、こうした娯楽色の強い映画への出演が増えてきた。これを決定づけたのが、同年の『リオの男』だろう。財宝のありかを示す像をめぐる冒険物語で、危険なアクションシーンも多いが、スポーツマンのベルモンドはスタントマンなしでやってのけた。この映画は大ヒットし、ベルモンドも新しくアクション俳優というイメージを持たれるようになる。1965年には同傾向の『カトマンズの男』に出演するが、これで共演したウルスラ・アンドレスと恋に落ち、行動を共にするようになる。そして翌年にアンドレスが離婚したのを受けて、ベルモンドも9月19日に離婚する。
また65年には、またもやゴダール監督の『気狂いピエロ』に主演する。しかし、ベルモンドはシナリオを使わないゴダールのやり方を批評し、「二度とゴダールとは仕事をしない」と宣言した。一方のゴダールも、1970年に商業主義の映画を嫌うと宣言し、もっとも使いたくない俳優の筆頭にベルモンドを挙げている。
1969年にはアラン・ドロンからの申し込みを受けて、初めての本格的な共演映画『ボルサリーノ』に出演。85万人を動員する大ヒット作となった。
[編集] プロデューサーとして
1972年に製作された『ジャン=ポール・ベルモンドの交換結婚』では、制作費の半分をベルモンドが負担し、プロデューサーとして手がけた最初の作品となった(クレジット上のプロデューサーは、弟のアランになっている)。そして自らのプロダクションであるセリト・プロダクションを創立し、1974年の『薔薇のスタビスキー』から本格的な映画製作に乗り出した。なおこの年、ベルモンドの映画出演料はアラン・ドロン、ルイ・ド・フュネスを抜いて、フランスでトップに躍り出た。
[編集] 主な出演映画
- 勝手にしやがれ (1959)
- 雨のしのび逢い (1960)
- 素晴らしき恋人たち (1961)
- 大盗賊 (1961年 Cartouche)
- リオの男 (1963年 L'Homme de Rio)
- ダンケルク (1964年 Week-end à Zuydcoote)
- 波止場 (1963年 Mare Matto)
- バナナの皮 (1963年 Peau de Banane)
- 黄金の男 (1964年 Échappement libre)
- ある晴れた朝突然に(1964年 Par un beau matin d'été)
- 太陽の下の10万ドル (1964年 Cent mille dollars au soleil)
- 気狂いピエロ (1965)
- カトマンズの男 (1965年 Les Tribulations d'un chinois en Chine)
- パリは燃えているか (1966)
- パリの大泥棒 (1966年 Le Voleur)
- タヒチの男 (1966年 Tendre Voyou)
- 007 カジノ・ロワイヤル (1967年 Casino Royale)
- ボルサリーノ (1969)
- コニャックの男 (1971年 Les Mariés de l'an II)
- 華麗なる大泥棒 (1971年 Le Casse)
- 相続人(1973年 L'Héritier)
- おかしなおかしな大冒険 (1973年 Le magnifique)
- ベルモンドの怪盗二十面相 (1975年 L'incorrigible)
- 追悼のメロディ (1977年 Le Corps de Mon Ennemi)
- 警部 (1979年 Flic ou voyou)
- ジャン=ポール・ベルモンドの 道化師/ドロボー・ピエロ (1980年 Le Guignolo)
- ソフィー・マルソー/恋にくちづけ (1984)
- ライオンと呼ばれた男 (1988)
- 百一夜 (1994)
- レ・ミゼラブル (1995)
- ハーフ・ア・チャンス (1998)
- パリの確率 (1999)
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
梶原和男 責任編集『シネアルバム(30) ジャン=ポール・ベルモンド』(芳賀書店)