ジョン・ウィルクス・ブース
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ジョン・ウィルクス・ブース(John Wilkes Booth, 1838年5月10日 – 1865年4月26日)は、アメリカの俳優(シェークススピア役者)。エイブラハム・リンカーンの暗殺犯として有名。南北戦争の結果に不満を持つ、南部連盟の支持者だったとされる。
ジョンは姉にリンカーンが共和制を廃止し絶対君主制をもたらす可能性を危惧していると話したという。
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[編集] 家族
父ジュニアス・ブースと母メアリー・アン・ホームズはイギリス人で、1821年にアメリカへ移住した。1838年5月10日北軍に属したメリーランド州ベル・エアの近くの農場でジョンは生まれた。兄エドウィンと姉がいる。彼のミドルネームは、18世紀イギリスの急進主義者ジョン・ウィルクスに因んだもので、ブース家はウィルクスの遠縁にあたるとも言う。
[編集] 父
ジュニアス・ブースはアメリカ演劇界の最も有名な俳優(シェークススピア役者)のうちの一人だった。彼が1852年に死んだ時、詩人ウォルト・ホイットマンは「最も偉大で最も高貴なローマ人は逝った。"There went the greatest and by far the most noble Roman of them all."」 と綴った。
[編集] 兄
エドウィン・ブース(Edwin Thomas Booth1833年 - 1893年)アメリカで初めてシェークスピア劇ハムレットなどを脚本どおり演じたシェークススピア役者。The Prince of Playersと呼ばれた。暗殺前にリンカーンの息子ロバート・トッド・リンカーン を汽車の事故から救った。妻メアリー・デブリンは娘エドウィナを生んで亡くなった。暗殺事件などにより引退を繰り返すも何度もカムバックした。
[編集] リンカーン暗殺事件
デービッド・ヘロルド、ジョージ・アッツアーロット、ルイス・パウエル(またはルイス・ペイン)、メアリー・サラット、ジョン・サラット、マイケル・オローリン、サミュエル・アーノルド、サミュエル・マッド、エドマン・スパングラーなどの共犯者とともにリンカーン、ワシントンに帰還したグラント将軍の他多数の政府高官を同時に殺害する計画を立てたという。しかし、グラント将軍夫妻は当日夕方に観劇を中止し不在であった。
1865年4月14日フォード劇場で「Our American Cousin」(イギリス貴族遺産相続にアメリカ人の甥がからむ喜劇)という現代劇を観劇中のリンカーンに対し1.2mの至近距離から拳銃で後頭部左耳後5cmを1発射撃した。狙撃時刻はPM10時13分またはPM11時17分の2説ある。ブースは"Sic semper tyrannis!"(ラテン語、英語"Thus always to tyrants,"(専制者は常にこのように。)とはバージニア州のモットー)と叫び(「南部は復讐される!"The south is avenged!"」と叫んだとする説もある)、護衛のラスボーン少佐がとびかかられるもナイフで腕を切って振り払い、バルコニーから階下に飛び降り脚を折った。 ブースは、足を引きずりどうにか用意した馬に乗ってネイビー・ヤード橋まで逃走、夜9時過ぎで通行禁止だったため橋守衛コップ軍曹に言い訳をし南部側へ。数日間の潜伏の後、4月26日南部同盟ジェットの案内でギャレッツ・ファームの小屋の中で共犯デービッド・ヘロルドと隠れているところを29名の警官隊に包囲されヘロルドは投降したがブースは拒否、エバートン・コンガー大佐が放火し、突入した際首の後ろを撃たれ殺された。射撃者は通説ではコーベット軍曹とされるが、ベイカー中尉とエバートン・コンガー大佐が踏み込んだが射撃者不明ともいう。その死体をみたヘロルドは、 それはブースではないと主張した。
ブースの死体と日記は汽船でワシントンに運ばれ、軍艦モントーク号の甲板に保管した後スタントン陸軍長官の命令で、4月27日の夜、秘密警察本部長ベイカー大佐、ベイカー中尉(大佐の甥ギャレッツ・ファームに踏み込んだ警官)により秘密裏に埋葬された。このため自分がブースと主張する者が多くあらわれたという。 1867年、ベイカー大佐の『特務機関の歴史』によれば以前の監獄の地下牢の床下に埋めたという。
[編集] 外部リンク
[編集] 関連書
- 巽孝之 『リンカーンの世紀』アメリカ大統領たちの文学思想史 青土社 ISBN 4791759451
- ジェイムズ・L・スワンソン 富永和子 訳 『マンハント』リンカーン暗殺犯を追った12日間 早川書房 ISBN 4-15-208769-2
カテゴリ: メリーランド州の人物 | 1838年生 | 1865年没