セボルガ公国
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セボルガ公国(Seborga)とは、イタリア北西部、地中海沿岸のボルディゲーラの北、標高約517mのところに位置する公国であるが、他国からの国家承認は1か国も受けていない。主な産業は農業と観光。
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国の標語:Sub umbra sedi (ラテン語: 影の下に座る) |
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公用語 | イタリア語 フランス語 |
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君主 | ジョルジョ1世 | ||||
面積 | 14km² | ||||
人口 | 約2000人 | ||||
独立 - 日付 |
959年 |
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通貨 | ルィジーノ | ||||
標準時 | UTC +1 | ||||
国歌 | スペランツァ | ||||
国際電話番号 | 39 |
目次 |
[編集] 歴史
954年の城塞と聖ミカエル教会の設立に始まり、959年にヴェンティミリアのサンミケーレ教会の修道院長と、レリーノ修道院の僧侶たちによって建国された。のちに公国として神聖ローマ帝国に編入された。 1118年史上初のシトー派修道会の治める独立国となり、12世紀には聖ベルナールの支援もあり大いに栄えた。 1729年にサボイ公国に強制併合されたが、正式には認められず、1814年のウィーン会議によるこの地域のサルディニア王国への編入やイタリア統一時、イタリア共和国発足時においても、セボルガ公国の最終的帰属は正式に言及されなかった。 2007年現在、上記のような理由から、セボルガ公国はイタリアからの独立を主張しているが、イタリア側はセボルガ公国をひとつの村としてみている。
[編集] 経緯
1960年代初頭、セボルガの花卉栽培共同組合長、ジョルジョ・カルボーネが、セボルガが歴史上公国としてもっていた独立を回復するべきだと主張するようになった。この主張は次第に受け入れられ、1963年、住民はこの主張を受け入れ、カルボーネを元首として選出し、独立が宣言された。以来、カルボーネはセボルガ公ジョルジョ1世を称している。1995年、公国の憲法が住民投票で採択された(賛成304、反対4)。
しかしこれはセボルガが公国としての地位をもっていることを意味しない。何人かはこの主張を一種の民間伝承だと考えているし、イタリア政府はセボルガをイタリア領とみなしている。
セボルガの独立についての議論は、1729年1月20日、サルディニア王ヴィットーリオ・アメデーオ2世にセボルガが売却されて以来、セボルガが独立の公国であると主張する。議論では、この売却によってセボルガがサルディニア王国の領となったわけではないとし、1861年のイタリア王国統一法がセボルガに触れていないことを論の補強とする。しかし、これらの主張がいかほど正しかったとしても、現在主張される独立は、いかなる公式の法律にもよっていないことは明記すべきであろう。
またイタリア政府とセボルガの間にはなんらの緊張もない。イタリアの法、医療サービス、通信、学校、その他すべての公共サービスがイタリアの他の地域同様に供給されている。住民はイタリアの行政サービスを受け、政治的権利を行使しており、地方税と(イタリアの)国税を納入している。たとえば2001年のイタリア上院選挙でのセボルガでの投票率は、84.21%であった。
[編集] 産業
農業と観光が主な産業である。「独立」の効果でセボルガは知られるようになり、イタリア国外からも観光客が訪れる。
[編集] 日本との関係
2004年6月に「日本セボルガ友好協会」が発足し、現在は「セボルガ公国駐日通商代表部」が置かれている。