ターヘル・アナトミア
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『ターヘル・アナトミア』は『解体新書』の底本となった解剖学書。ドイツ人クルムスの解剖学書がオランダ語に翻訳されたもの。1734年アムステルダム刊。
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[編集] 著者・訳者
『ターヘル・アナトミア』はドイツ人医師クルムス(Johann Adam Kulmus 1689年-1745年)の著書。原書『Anatomische Tabellen』は1722年ダンツィヒ発行。1732年に第2版発行。ラテン語、フランス語、オランダ語に訳された。
オランダ語版である『Ontleedkundige Tafelen』は1734年発行。オランダ人医師ディクテン(Gerardus Dicten 1696年?-1770年)の翻訳による。
[編集] 書名の問題
『ターヘル・アナトミア』という書名は、杉田玄白の『蘭学事始』の中で使われている表記である。漢文で書かれている『解体新書』においては「打係縷亜那都米」と表記され、「ターヘル・アナトミイ」とフリガナが付いている。『解体新書』の凡例の中で「ターヘル」が表、「アナトミイ」が解剖を意味しているとの説明がある。
『蘭学事始』と『解体新書』により、『ターヘル・アナトミア』の書名は有名であるが、これは俗称。ドイツ語の原著名はAnatomische Tabellen、オランダ語ではOntleedkundige Tafelenであり、いずれも「ターヘル・アナトミア」とはならない。
扉絵に書かれているラテン語ではTabulæ Anatomicæ(タブライ・アナトミカイ)となっていて「ターヘル・アナトミア」に近いが、微妙に違う。これを再度オランダ語に置き換えてTafel Anatomieとしたものがかなり近い。おそらく、オランダ語の俗称が伝わり、蘭学者のあいだで「ターヘル・アナトミア」と呼ばれるようになったのではなかろうか。なお『Tabulæ Anatomicæ』というのは解剖学書としてはよくある名前である。
上記の理由から『ターヘル・アナトミア』が正式な書名とは言い難く、本来なら『クルムス解剖書』のように呼ぶのが妥当であるが、杉田玄白が『蘭学事始』の中で何度も『ターヘル・アナトミア』と表記しているので、一般に広まっている。日本で『ターヘル・アナトミア』と言えばクルムスの解剖書のことである。
[編集] 日本への招来
日本へは少なくとも2冊輸入されている。前野良沢と杉田玄白の所有した本である。おそらくもっと多く入っていることと考えられている。
前野良沢は、明和7年(1770年)長崎遊学の際に同書を入手している。
杉田玄白の同書入手の仲立ちになったのは、『解体新書』の翻訳メンバーでもある中川淳庵だった。明和8年(1771年)の春、中川淳庵は、江戸参府中の出島商館長(カピタン)を訪問する。そこで『ターヘル・アナトミア』および『カスパリュス・アナトミア』(カスパル解剖書)を見せられ、「望む人がいれば譲る」と言われた。順庵自身もこの本に興味があったに違いないが、彼が買える金額ではなかったのであろう。2冊を預かって、同じ小浜藩医で先輩であった杉田玄白のところへ持ってきた。玄白も大いに興味を持ったが、彼もまた個人では買えず、藩の家老に頼み込み、代金を出してもらってやっと入手できたという。なお玄白は『カスパリュス・アナトミア』もこのとき入手したらしく、『解体新書』に玄白所蔵の参考図書として出てくる。
同年3月4日、小塚原で腑分(解剖)を見るために杉田玄白、中川淳庵、前野良沢などが集まった。そのとき良沢は『ターヘル・アナトミア』を持参してきた。それは玄白が入手した物と同書同版であるとわかり、互いに手を打ち合ったという。
その翌日より、前野良沢、杉田玄白、中川淳庵によって、『解体新書』の翻訳作業が始まる。
[編集] 『解体新書』との関係
『解体新書』は基本的に『ターヘル・アナトミア』の翻訳であるが、他にも数冊の洋書が参考にされており、杉田玄白による独自の注釈も付けられている。単純な翻訳ではなく、実用的な解剖学書として再構成された本だと言える。
原本にある注釈は『解体新書』では省かれ、本文だけが訳されている。
『解体新書』翻訳のときは、あたりまえであるがオランダ語の研究が十分ではなく、誤訳も多かった。当時、杉田玄白らは『ターヘル・アナトミア』がドイツ語からの翻訳書であることを理解しておらず、もともとオランダ語で書かれた本だと思っていた。
玄白も『解体新書』が誤訳だらけであることを心苦しく思ったらしく、弟子の大槻玄沢に訳し直させた。それが『重訂解体新書』である。同書は寛政10年(1798年)に稿ができていたが、刊行は諸般の事情で遅れ、文政9年(1826年)にやっと刊行された。