ダニエル・パサレラ
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ダニエル・パサレラ(Daniel Passarella、1953年5月25日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身の元サッカー選手、指導者。選手時代のポジションはディフェンダー。
アルゼンチン史上最高のディフェンダーと称される元アルゼンチン代表選手。174cmと小柄ながら、優れた跳躍力と当たり負けしない体躯で並み居る屈強なフォワードたちと互角以上に渡り合った。フリーキックなど攻撃面にも非凡な才能を持ち、ディフェンダーながら通算出場451試合で134ゴールを記録した。
現役時代はリバープレート、フィオレンティーナ、インテルを渡り歩き、セリエAでの成功の後にリバープレートに戻った。
地元アルゼンチンで開催された1978年のFIFAワールドカップでは、24歳でチームのキャプテンを務め、アルゼンチンの初優勝に大きく貢献した。また1986年のFIFAワールドカップ予選では、ペルーを相手に予選突破を決定づけるゴールを挙げている。その後2度目の優勝を飾った1986年大会本選ではパサレラ自身は「腸炎のため」出場できなかったとされているが、当時の中心選手、ディエゴ・マラドーナおよび代表監督であったカルロス・ビラルドとそりが合わなかったとも言われており、パサレラは後にこの2人が自分を欠場させたと主張している。
1989年にリバープレートで選手生活を終えた後、すぐに同クラブの監督職に就任し指導者としてのキャリアをスタートさせた。1994年にはアルフィオ・バシーレの後任としてアルゼンチン代表監督に就任。1998年のFIFAワールドカップの予選・本戦を通じてチームを指揮したが、この大会ではオランダに敗れ、ベスト8に終わった。彼が監督である間は、フェルナンド・レドンドのような長髪の選手を代表に呼ぶことを拒絶することについて議論が起こっていた。その他ガブリエル・バティストゥータやフアン・セバスティアン・ベロンら当時の有力選手たちと度々衝突することがあった。
その後ウルグアイ代表監督となるが、2002年のFIFAワールドカップの予選の最中に更迭。2001年にセリエAのパルマの監督を務めたのち、2003年にはCFモンテレーを率いてメキシコリーグの覇者となった。2005年には大型補強で改革を進めるブラジルのコリンチャンスの監督となったが、チームをまとめ切れずに数ヶ月で解任された。
2006年、レイナルド・メルロの辞任によって空白となっていた古巣・リバープレートの監督の座についた。
2004年、ペレによって世界の偉大なサッカー選手「FIFA 100」の1人に選出されている。
[編集] 選手経歴
- CAサルミエント(アルゼンチン)1971-1973
- リバープレート(アルゼンチン)1974-1982
- フィオレンティーナ(イタリア)1982-1986
- インテル・ミラノ(イタリア)1986-1988
- リバープレート(アルゼンチン)1989
[編集] 指導経歴
- リバープレート(アルゼンチン)1989-1994
- アルゼンチン代表 1994-1998
- ウルグアイ代表 1999-2001
- パルマAC(イタリア)2001
- CFモンテレー(メキシコ)2002-2004
- コリンチャンス(ブラジル)2005
- リバープレート(アルゼンチン)2006-
リーベル・プレート - 2007 |
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1 ルクス | 2 トゥッシオ | 3 ドミンゲス | 4 フェッラーリ | 6 ルッセンホフ | 7 オルテガ | 8 ベルスキ | 9 ファリアス | 11 ファルカオ | 12 カッリーソ | 14 ヘルロ | 16 サパタ | 18 サンブエサ | 20 ナスーティ | 26 リマ | 27 アントニオ | 28 フェルナンデス | 33 ドミンゴ | 34 ロマン | 35 ルドゥエーニャ | 37 ムサッキオ | 39 リオス | 不明 オヘダ | 不明 リバス | 不明 ビジャグラ | 不明 ガルバン | 不明 アベライラス | 不明 ポンシオ | 不明 トハ | 不明 アウマダ | 不明 ロサレス | 不明 アルメラレス | 不明 ルベン | 監督 パサレラ | |
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アルゼンチン代表 - 1986 FIFAワールドカップ 優勝メンバー (2度目) | ![]() |
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1 アルミロン | 2 バティスタ | 3 ボチーニ | 4 ボルギ | 5 ブラウン | 6 パサレラ | 7 ブルチャガ | 8 クラウセン | 9 クチューフォ | 10 マラドーナ | 11 バルダーノ | 12 エンリケ | 13 ガッレ | 14 ジュスティ | 15 イスラス | 16 オラルティコエチェア | 17 パスクリ | 18 プンピード | 19 ルジェリ | 20 タピア | 21 トロッビアーニ | 22 セラダ | 監督: ビラルド |
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アルゼンチン代表 - 1978 FIFAワールドカップ 優勝メンバー (初) | ![]() |
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1 アロンソ | 2 アルディレス | 3 バレイ | 4 ベルトーニ | 5 フィジョール | 6 ガジェゴ | 7 L.ガルバン | 8 R.ガルバン | 9 ハウスマン | 10 ケンペス | 11 キレール | 12 ラロッサ | 13 ラボルペ | 14 ルケ | 15 オルギン | 16 オルティス | 17 オビエド | 18 パニャニーニ | 19 パサレラ | 20 タランティーニ | 21 バレンシア | 22 ビジャ | 監督: メノッティ |
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