トウ艾
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鄧艾(とうがい、197年? - 264年)は、中国、後漢末から三国時代の魏の武将。字は士載。子は鄧忠・他二名。 鄧朗・鄧千秋の祖父、鄧韜・鄧行の高祖父。
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[編集] 経歴
[編集] 蜀侵攻以前
義陽郡棘陽県の人。吃音であったが、智勇に優れた。苦学して魏の地方官となったが若いころは不遇であった。30代まで貧しい官吏であったが、司馬懿の抜擢を得、司馬師、司馬昭の司馬氏3代にわたってその才能を高く評価され、重用された。
当時、田地を拡大して穀物を蓄え、賊国(呉・蜀)を滅ぼすための基礎とする計画が立てられ、陳・項以東寿春までの地域に派遣され視察した。『済河論』を書いて運河の開通を進言した。司馬懿は進言を嘉し、全て実施に移した。備蓄された食糧があるうえに水による被害もなくなったのは彼の建策のおかげである。また貧しい下級官吏時代から周囲の嘲笑をも気にせず「将来必ず役立ててみせる」と、任地に赴任した際は直ちに自らの手で職掌地域の詳細な地図を作成したとされる。
蜀漢の姜維が侵攻してくるとこれを大いに破り、毌丘倹と文欽が反乱を起こしたときも、その鎮圧に当たるなど、いずれも大功を挙げている。
[編集] 蜀攻略
263年、司馬昭の命を受けて征西将軍として鍾会と共に蜀漢に侵攻し、このとき蜀の要衝であった剣閣を迂回するという奇襲を行い、守将の諸葛瞻らを討ち取った。さらに、蜀漢の首都成都を攻略して劉禅を降伏させ、蜀漢を滅ぼすという大功を挙げた。しかしその後、旧蜀領の占領統治を巡って独断専行的な姿勢が目立ち始めると内外から不審の目で見られるようになる。
[編集] 鍾会のクーデターと死
やがて、鍾会・胡烈・師纂らによって反逆者とされ、囚人護送車によって送還されることになった。孫盛の史書『魏氏春秋』にいう。鄧艾は天を仰ぎ嘆息していった、「私は忠臣であった。白起のむごい運命が、今日に再現したのだ」。
鄧艾の護送車が成都を発つと、鍾会・姜維らはクーデターを起こしたが、失敗に終わり死んだ。そこで鄧艾の軍勢は彼を助け出した。衛瓘は自分が鍾会に従い鄧艾を逮捕したことから、復讐されることを恐れた。そこで、鄧艾に個人的な恨みがあった田続を唆し、鄧艾の軍勢を追撃させ、息子の鄧忠と共に殺させてしまった。また、師纂もこのどさくさで殺された。
[編集] その後
洛陽にいたその他の子も反逆者への連座として処刑され、妻と孫は西域へ流罪となった。265年、西晋の皇帝として即位した司馬炎は、「鄧艾は功績を誇り節義を失って、実に大罪に陥った」が、情状酌量の余地はあるとして妻と孫の帰還を許し、後継者を絶やすことの無いようにと命じた。
267年、段灼は鄧艾を弁護して次の様に述べている。
- 鄧艾が反逆したという発言は遺憾です。鄧艾は強情でせっかちな性格でして、名士や俗人どもの気持ちを軽々しく踏みにじり、そのために誰も彼を弁護してやろうとしなかったのです。
- (中略)
- (独断専行は)通常の規則に違反したとはいいながら、(国境を出れば自分の判断で処置して良いという)古代の建前に一致しますし、当然酌量すべき情状はあります。鍾会は、鄧艾の権威・名声を憎み、あの事件をでっち上げたのです。忠義を尽くしながら誅を受け、子供たちもいっしょに斬刑にあいました。これを見た者は涙を流し、これを聞いた者は嘆息したものです。
- (中略)
- 蜀平定の勲功をとりあげて、彼の孫に領地を継がせ、評価に従って諡号を定め、死者に恨みが残さないですむようにしてください。黄泉にいる無実の魂に恩赦を与え、子孫に信義をのべることになります。
当時過去刑に処されたものを弁護することは、過去の皇帝の誤りを申し立てることでもあり、自らの失脚につながる行為であった。ましてや反逆者として処刑された者の名誉回復の嘆願をするなどは命懸けの所業であり、まず受け入れられないものだった。しかし段灼の嘆願は実を結び、273年、司馬炎は功績を評価して名誉を回復すると共に、孫の鄧朗を郎中に取り立てた。泰始年間、羌が大挙して反乱を起こしたが、鄧艾の築いた砦のおかげで官民ともに安全を保てたという。
[編集] 現在の評価
一農政官から身を挙げた鄧艾は多くの人々に慕われ、彼の死後長きに亘って多くの鄧艾廟が作られ、一部は現存する。また、現在でも吃音の人を励ます例として、鄧艾の立志伝が引き合いに出されることがある。演義の影響が強い中国で、晋の将軍が好意的なたとえに用いられることは珍しい。