司馬炎
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司馬 炎(しば えん、青龍4年(236年) - 太熙元年(290年)4月、在位泰始元年(265年)12月 - 太熙元年(290年)4月)は、西晋の初代皇帝である。字は安世。諡号は武皇帝であり、廟号は世祖である。
咸熙2年(265年)に魏の元帝から禅譲されて晋の皇帝となった。そして、咸寧6年(280年)には呉を滅ぼし、黄巾の乱以降分裂状態が続いていた中国をおよそ100年ぶりに統一した。
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[編集] 略要
[編集] 即位以前
司馬炎は、魏の有力者であった司馬昭と王元姫(王粛の娘)との間に長男として生まれた。中撫軍などを歴任した。咸熙元年(264年)に、父・司馬昭が晋王となると、その世継ぎとされた。最初、司馬昭は司馬炎の同母弟である司馬攸(三男)に継がせようと考えていた。司馬攸は、司馬昭の兄の司馬師の養子となっていたからであり、司馬昭は兄の方の家が司馬氏の正統と考えたからである。しかし、重臣の反対により、咸熙2年(265年)5月には正式に晋王の太子とされた。同年8月に司馬昭が没すると、司馬炎は晋王・相国の位を継いだ。同年12月には、魏の元帝に禅譲を迫り、皇帝の位を奪い、新王朝を『晋』と名付けた。
[編集] 統一まで
新しく皇帝になった司馬炎は、一族のものをつぎつぎと王として各地に封じ、土地と兵力とを与えた。これは、魏が皇族に力と土地をあまり多く与えず、皇族の力が弱かったために魏が滅びたということがあったため、晋もこのようなことを引き起こさないようにということである。また、即位後は善政に務め、民の負担を減らすようにした。泰始4年(268年)1月には泰始律令が完成した。
咸寧5年(279年)11月から賈充・楊済をそれぞれ主将・副将として、大挙して呉を攻めさせた。咸寧6年(280年)3月には、呉を滅ぼし、念願の中国統一を成し遂げた。
[編集] 統一後
統一後、司馬炎はすっかり気を楽にしてしまったのか、政治をしっかりと執り行わなくなった。呉は滅んだのだからと、軍隊も縮小された。中国統一後の司馬炎の業績としてみるべきなのは太康元年(280年)から始まった占田・課田法であろう。
司馬炎は、女色にふけったことでも知られる。統一以前の泰始9年(273年)7月には、詔勅をもって、女子の婚姻を一旦禁止し、その中から、自分の後宮に入れるための女子を五千人選んだ。さらに、呉を滅ぼした後の太康2年(281年)3月には、呉の皇帝であった孫皓の後宮の女性五千人を自らの後宮に入れた。一万人もの宮女を収容した広大な宮殿を司馬炎は夜な夜な羊に引かせた車に乗って回った。この羊の車が止まったところの女性のもとで、一夜をともにするのである。そこで、宮女たちは自分のところに皇帝を来させようと、自室の前に竹の葉を挿しておき、塩を盛っておいた。羊が竹の葉を食べ、塩をなめるために止まるからである。この塩を盛るという故事が、日本の料理店などで盛り塩をするようになった起源とも言われている。なお、一万人の女性といっても、后などを世話する女官などの数も入っているため、実際に司馬炎が一万人の女性を相手にしたというわけではない。
在世中には匈奴・鮮卑の侵攻に悩まされ続けた。さらに、後漢末の混乱期から、匈奴・鮮卑といった異民族が中原の地に移住するようになり、従来の漢人住民とトラブルを起こすようになっていた。侍御史の郭欽は、呉を統一した機会にこれら異民族を辺境に戻すべきだと上奏したが、司馬炎はこれに聞く耳をもたなかった。
太康5年(284年)以降、天災が相次ぎ、日食もしばしば起き、人心は荒廃した。こういった中、太熙元年(290年)夏4月、司馬炎は含章殿において56歳で崩御し、その遺体は峻陽陵に葬られた。
[編集] 歴史的評価
司馬炎は、父・司馬昭の敷いたレールに乗って、晋王朝を創始した。しかし、王朝の開祖としてはあまり英明でなく、どちらかというと2代目または3代目的な人物であるともいえよう。苦労を知らず、統一後の国家の基盤形成を怠ったことは西晋が早く滅亡する要因ともなった。高官の者に対する賄賂がはびこり、九品官人法批判で知られる劉毅は司馬炎を後漢の桓帝・霊帝に引き比べて批判した。
また、司馬炎が皇族をあちこちの王に封じて、軍権をも与えたことは、かえってこれら皇族の間の争いを誘発することとなり、八王の乱の遠因となった。異民族に対して何ら対策らしい対策をしなかったことも、これら異民族が華北で騒乱を起こす原因ともなった。また、賈妃に騙され暗愚な息子であった司馬衷を次期皇帝としたことも、八王の乱以降の混乱を引き起こした原因ともなった。そして、後宮に大量に女性を集めるといった行動は結果的に民衆の生活を苦しめることにもなった。
何はともあれ、司馬炎は一時的に中国を統一したものの、異民族の中原への侵入など、中国の分裂を引き起こす要因に何ら為すすべを持たなかったのである。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
- 楊元后
- 審美人
- 徐才人
- 匱才人
- 趙才人
- 趙美人(趙才人の妹)
- 李夫人
- 厳保林
- 陳美人
- 諸姫
- 程才人
- 王才人
- 楊悼后(楊元后の従妹)
[編集] 子女
- 毗陵悼王司馬軌(正明)
- 恵帝司馬衷(正度)
- 秦献王司馬柬(弘度)
- 城陽懐王司馬景(啓度)
- 楚隠王司馬瑋(彦度)
- 長沙厲王司馬乂(士度)
- 城陽殤王司馬憲(明度)
- 東海沖王司馬祗(敬度)
- 始平哀王司馬裕(濬度)
- 代哀王司馬演(宏度)
- 淮南忠壮王司馬允(欽度)
- 呉孝王司馬晏(平度)
- 新都懐王司馬該(彦度)
- 清河康王司馬遐(深度)
- 汝陰哀王司馬謨(令度)
- 成都王司馬穎(章度)
- 懐帝・予章王司馬熾(豊度)
- 渤海殤王司馬恢(思度)
- その他8人の男子が多数
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- 平陽公主
- 新豊公主
- 陽平公主
- 武安公主
[編集] 在位中の年号
なお、西暦の後の月は、すべて旧暦である。
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