トーニャ・ハーディング
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トーニャ・ハーディング(Tonya Harding, 1970年11月12日 - )はアメリカ合衆国オレゴン州ポートランド出身の元フィギュアスケート選手、プロボクサー。全米選手権で2度優勝、1991年の世界選手権で銀メダルに輝いた。アメリカの女子選手で初、世界でも伊藤みどりに次いで、トリプルアクセルを成功させた。
目次 |
[編集] 来歴
- 1986年
- 全米選手権6位
- 1987年
- 全米選手権5位
- 1988年
- 全米選手権5位
- 1989年
- 全米選手権3位
- 1990年
- 全米選手権7位(風邪を引いていた)
- 1991年
- 全米選手権優勝(トリプルアクセルを跳んで、技術点ただひとり6.0をマークした。)
- ワールド・チャンピオンシップでクリスティー・ヤマグチに次いで銀メダルを獲得した。
- 1992年
- かかとの怪我もあり、全米選手権3位、アルベールビルオリンピックで4位。前年まで成功していたトリプルアクセルが成功しなくなった。
- 1993年
- 全米選手権のショートプログラム中、滑りはじめた彼女の衣装の背中が破れてレフェリーに滑りなおしを求める。
- 全米選手権の前に、爆弾をしかけたという電話が入る。(後にハーディング自身が脅迫に関わっていたとFBIが発表した。)
- スケート・アメリカでフリーの演技中、彼女のシューズのブレードがなくなってしまう。レフェリーに説明の上、再度演技した。
- 1994年
- 全米選手権のメダル授与式がハーディングが見つからなかったため遅れた。
[編集] ナンシー・ケリガン殴打事件
1994年1月6日、リレハンメルオリンピック全米選考会で、ハーディングの元夫がライバル選手であるナンシー・ケリガンを襲撃するという事件を起こした。ケリガンは膝を殴打される怪我を負い欠場、ハーディングはこの大会で優勝した。 ハーディングが事実関係を認めた後、全米スケート協会とアメリカオリンピック委員会はハーディングをオリンピックチームから追放しようとしたが、彼女は法的措置をほのめかしてそのまま留まった。オリンピックでは、ケリガンは怪我にも関わらず銀メダルを獲得、ハーディングは8位に終わった。(一時、アメリカ代表は全米選手権2位のミシェル・クワンに決まりかけていた。)
2月1日、元夫がハーディングに不利な証拠と共に司法取引を受け入れた。
[編集] リレハンメルオリンピック
リレハンメル五輪本番では、テクニカルプログラム(現在のショートプログラム)でのコンビネーションジャンプで、トリプルルッツが両足着氷となるミスを犯し、10位と出遅れる。その2日後のフリー演技では、ハーディングが自身の出番になってもなかなかリンクに現れず、失格寸前の1分50秒過ぎにようやく登場(名前を呼ばれてから2分以内にリンクへ現れないと失格となる)。しかしハーディングは、フリー演技が始まってから最初のジャンプに失敗すると、まだ1分も経たない内に突然泣き出して演技を中断してしまう。靴ひもが切れて演技が出来ないことを理由にジャッジへ抗議すると、ジャッジはハーディングのフリー演技のやり直しを認める事となる。次の出番であるカナダの選手ジョゼ・シュイナールは、予定外の事態にすぐリンクに登場して、演技を開始する羽目となった(シュイナールは9位に終わる)。ハーディングはそのグループの最後に演技を再度行った。5種類の3回転を成功させて笑みをみせたが、トリプルアクセルに挑戦するも結局失敗に終わり、結果8位入賞に留まった。
[編集] オリンピック後
リレハンメル五輪が終わった後の3月16日、ハーディングは罪を認めることで、懲役刑を免れ3年間の執行猶予、500時間の奉仕活動、罰金16万ドルを受け入れた。その後、全米スケート協会は、1994年全米選手権での優勝と1999年までの公式大会出場権やコーチになるための権利を剥奪した。プロのイベントには制限がされなかったが、彼女を起用しようするプロモーターは現れなかった。
その後、アメリカのニュースで練習中に3アクセルに挑戦する姿が放送されるも、大きな反響を呼ぶに至らなかった。また日本のバラエティ番組に出演したり、ニュースステーションでインタビューを受けたりするも「話題の人」の扱いにとどまっていた。元夫にプライベート・ビデオを暴露されたり、同棲している恋人に暴行を働き逮捕されたりと話題を振りまいた。
2003年には、プロボクシングにも挑戦した。
[編集] 演技について
彼女は力強いジャンプやスピンを持っていたが、規定が苦手だった。