ドルトレヒト会議
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ドルトレヒト会議とは宗教改革期のオランダで1618-1619年に開かれた宗教会議を指す。
ドルトレヒトにおける教会会議はそれ以前にも1574年、1577年、1578年に開かれている。オランダの宗教改革において、それらはみな重要であるが、教理史的には1618年11月13日から1619年5月29日まで開かれたものが最重要である。
ドルトレヒト市は港として栄えた町で、ここの「大教会」を会場に会議が開かれた。会議は二部に分かれ、前半は国際会議で、後半は国内の教会会議である。国際会議にはオランダ国内の教会の各クラシス(長老会)から神学教授5、牧師35、長老20名が出席したほか、ドイツ(プファルツ、ヘッセン、ナッサウ、ブレーメン、エムデン)、イングランド(国王ジェームズ1世はレモンストラント派に反対であった)、スコットランド、スイス(バーゼル、ベルン、シャッフハウゼン、チューリッヒ)、ジュネーヴの改革長老教会から神学者計27人が参加した。(フランスの教会にも出席が要請されたが、ルイ13世が出席を許さなかった)。議長はヨハンネス・ボーヘルマン(1576-1637)が務めた。
11月19日から12月5日までの期間はプロ・アクタといって、聖書翻訳、教理の説教、教理の教育を扱った。12月6日からレモンストラント派の主張を検討し始め、内容の論議に入ったのは12月13日であった。こうして作られた教理のガイドラインを「規定」(Canones,Leerregels)と呼ぶ。各クラシス(長老会)から送られた代議員の多くは反レモンストラント派であり、少数のレモンストラント派を代表したのはエピスコピウスであった。彼らは自分たちの見解を開陳する機会を与えよとの主張を繰り返したが、同等の立場で論争することはなく、多数派が少数派を一方的に裁く形になった。レモンストラントを評論した命題(Sententia Remonstrantium)が提出されたが、誤謬の拒否の項でこれが扱われている。