ニコライ・チヘイゼ
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ニコライ・チヘイゼ(チヘイーゼ、Nikoloz Chkheidze、グルジア語、ნიკოლოზ ჩხეიძე 、ロシア語ではニコライ・セミョーノヴィッチ・チヘイゼ、Nikolay Semyonovich Chkheidze、カルロ・チヘイゼの変名でも知られる、1864年 – 1926年6月13日)は、ロシアおよびグルジアの革命家、政治家。グルジア人。メンシェヴィキ。1890年代にグルジアにおけるマルクス主義拡大に力を発揮し、1917年ロシア革命が勃発するとグルジアにおける革命運動において大きな役割を演じた。
[編集] 生涯
1864年ロシア帝国領であったグルジアのクタイシ県プチ村に貴族の息子として生まれる。オデッサ大学に入学するが、学生運動に参加し放校処分を受け故郷に戻り官吏となる。1892年兄弟のカレニーケ・チヘイゼとともに、グルジアで(ザカフカス全体でも)初めての社会民主主義団体を創設する。この団体は後に「メサミ・ダーシ Mesame Dasi 」(第三グループの意)の名前で巷間に知れ渡ることとなる。1898年バトゥーミ市社会民主労働党委員に選出される。1903年第2回社会民主労働党大会で社民党が分裂すると、チヘイゼはメンシェヴィキに参加する。
1905年第一次ロシア革命では、新聞、雑誌への投稿や集会の組織を行った。この間、2回逮捕されバトゥーミから追放処分を受けている。チフリス(現在のトビリシ)に移り市議会議員を経て、1907年チフリス県から第3、第4国会(ドゥーマ)議員に当選する。当選後は社会民主労働党議員団長、党の完全分裂を受けてメンシェヴィキの議員団長、スポークスマンに就任する。
1917年ロシア革命(二月革命)が勃発すると、同年2月から8月までペトログラードソビエト執行委員会議長となり、同年6月から10月まで全露中央執行委員会議長を務めた。メンシェヴィキの幹部(中央委員)として、レーニン率いるボリシェヴィキの急進主義に反対していた。しかし、ボリシェヴィキの台頭を防ぐことには失敗した。臨時政府に参加することは拒否したが、革命的祖国防衛派に協力し戦争継続を支持した。
1917年10月、ボリシェヴィキによる武装蜂起で十月革命が起こったのだが、これに反対した。休暇中でグルジアに帰郷中であったが、そのままグルジアに留まり、1918年2月ザカフカス国会議長に選出された。同国会は、ソビエト・ロシアからのザカフカスの分離を承認し、1919年3月、グルジア民主主義共和国憲法制定議会(制憲議会)の議長となった。同年開催されたパリ講和会議に出席し、グルジア民主主義共和国の承認を求めたが未承認に終わり、1921年グルジアに赤軍が侵攻しソビエト政権が樹立されると、フランスに亡命した。その後も亡命者組織を結成し活動していたが、1926年6月13日パリ近郊で自殺した。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- ニコライ・セミョーノヴィチ・チヘイーゼ エンサイクロペディア・ブリタニカ・オンライン.(英語)
- Чхеидзе, Николай Семенович(ロシア語)