バルドゥール・フォン・シーラッハ
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バルドゥール・フォン・シーラッハ(Baldur von Schirach 1907年5月9日 - 1974年8月8日)は、ドイツ第三帝国の政治家。ヒトラー・ユーゲントの指導者。
[編集] 生涯
シーラッハは古い貴族将校の家系の出身で、ドイツ人の父とアメリカ人を母を持ち、ドイツ語以上に英語が達者だった。1927年にアドルフ・ヒトラーのすすめでミュンヘン大学に入学。1931年10月に「全国青少年指導者」の初代指導者に24歳という若さで任命された。彼は翌年3月に、ヒトラーの専属写真家ホフマンの娘ヘンリエッテと結婚し、同年7月、25歳でナチ党最年少の国会議員に当選した。そしてその後、ヒトラーから「ヒトラー・ユーゲント」指導者に指名された。
このシーラッハの指導によって「ヒトラー・ユーゲント」は急激に成長していくことになる。1933年、ヒトラーの政権獲得によって、「ヒトラー・ユーゲント」への加入者が激増したが、シーラッハは、ナチの「一元化」政策を踏まえて、様々な青少年組織を「ヒトラー・ユーゲント」に統合するようになる。1934年6月には、カトリック系、同盟系、スポーツ系、職業系、軍事系の青年諸団体を、シーラッハの指導の下に統括し、その後、プロテスタント青年団や体操協会を「ヒトラー・ユーゲント」に編入した。
1936年12月、「ヒトラー・ユーゲント法」制定によって、それまでナチ党の「私的」な組織だった「ヒトラー・ユーゲント」は公式に「国家機関」となり、それ以外の青少年組織は禁止された。そして10歳から18歳までの青少年が強制加入させられ、「ヒトラー・ユーゲント」は、第三帝国の青少年組織の総称となった。
1940年8月に、シーラッハは、ウィーン大管区長に任命され、後任のアルトゥール・アクスマンは「ヒトラー・ユーゲント」を軍事化して戦火に巻き込むようになった。これは「ヒトラー・ユーゲント」を大事に育ててきたシーラッハにとって我慢ならぬ事態であった。シーラッハは「ヒトラー・ユーゲント」の戦時体制導入に大反対の立場だった。
戦後のニュルンベルク裁判で、「ヒトラー・ユーゲント」の初代総裁だったシーラッハは、ドイツの青少年団体の責任者として「人道に対する罪」とウィーンのユダヤ人を追放した訴因で裁かれ、禁固20年の判決を受けた。ベルリン・シュパンダウの戦犯監獄に収監され1966年、刑期満了で釈放後、南西ドイツに隠棲。『私はヒトラーを信じた』という自伝を著し1974年にひっそりと世を去った。