ヒジャーズ王国
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ヒジャーズ王国(ひじゃーずおうこく)は、1916年から1925年の間、アラビア半島に存在した国家である。
ヒジャーズ王国の創始者はフサイン・イブン・アリーであり、彼はイスラム教の創始者であるムハンマドの子孫に当たるハーシム家の出身である。彼はオスマン帝国の支配下の元、マッカ(メッカ)の太守(シャリーフ)として次第に頭角を現していった。こうして第一次世界大戦中の1915年にはイギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンと「フサイン=マクマホン協定」を結び、ついにオスマン帝国に対して反旗を翻した。このようなイギリスからの支援もあって、1916年、ヒジャーズ王国は建国された。
フサインは「アラブ人の王」を称した。これは、自身こそがアラブ地域全体の王になるにふさわしいと宣言している訳だが、建国当初に実効支配していた領域は紅海沿岸のヒジャーズ地域のみであった。またイギリスはフサイン=マクマホン協定ではアラブ国家の建設を支持していたものの、その後結んだサイクス・ピコ協定でアラブ地域の分割を決めたこともあって、フサインがアラブ地域全体を統一した形でアラブ国家を建設することを望んでいなかった。このような背景から「アラブ人の王」を名乗るものの、実体はあくまで「ヒジャーズ地域のみを支配する王」としての建国となった。
フサインはさらに、1924年にカリフの称号を自称する。これはトルコ共和国で最後のカリフが廃位されたことを受けての行動であった。しかし、実際には一地方政権の王に過ぎないにもかかわらず、全世界のスンナ派ムスリムの精神的支柱であるカリフを名乗ったことは「僭称」と受け取られ、ヒジャーズだけではなくアラブ地域全体で有力者層の猛反発と怒りを買い、フサインは孤立する。そして、このような状況の中で、長年にわたり対立してきたワッハーブ派のイブン・サウードがヒジャーズ王国に攻め入ると、フサインは退位させられ、息子のアリー・イブン・フサインに譲位してキプロス島へ亡命することとなった。
後を継いだアリーはイブン・サウードとの和睦を試みるも失敗し、本拠地であるマッカを失った上、1925年には残るマディーナ(メディナ)とジェッダも陥落する。アリーはイラクへ逃れ、ここにヒジャーズ王国はわずか2代9年で終わりを告げた。
[編集] 歴代君主
- フサイン・イブン・アリー(在位:1916年 - 1924年)
- アリー・イブン・フサイン(在位:1924年 - 1925年)