ビル・ガリクソン
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ビル・ガリクソン(William Lee Gullickson、1959年2月20日 - ) は昭和後期から平成期(1980年代~1990年代前半)のプロ野球選手。
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[編集] 来歴・人物
ガリクソンは1977年6月のMLBドラフトでモントリオール・エクスポズに全体で2番目に指名された。1980年にブレークを果たし、10勝5敗という成績を残してナショナルリーグ新人王投票でスティーブ・ハウに続き2位に入る。また、その年の試合で挙げた18奪三振は、1998年にケリー・ウッドが20奪三振で更新するまでルーキーとしては最多であった。この18奪三振という記録は現在のワシントン・ナショナルズの球団記録である。
1981年にはエキスポズにとって唯一となる地区優勝に7勝9敗、防御率2.81で貢献する。この年はストライキの影響で試合数が少なく、勝ち星は伸びなかったが、その後ガリクソンは毎年二桁勝利を挙げ続ける事となった。1986年にシンシナティ・レッズに移籍し、15勝12敗の成績を残す。翌年ニューヨーク・ヤンキースに移籍するが水が合わず、日本の読売ジャイアンツの2億円のオファーを受け海を渡る。
1988年、1989年の2年間、読売巨人軍に在籍。糖尿病を患いながらも2年間で21勝(14敗)を挙げる。糖尿病は激しい運動は無理、のイメージを持つ人々にとってインスリンを打っての登板は衝撃的であった。この時の日本生活を振り返り、ガリクソンは「奇妙だった」「唯一見た英語の単語はSonyとMitsubishiだけだった」と後述している。
1990年よりアメリカメジャーリーグ・ヒューストン・アストロズに復帰、1991年にはデトロイト・タイガースで21勝(9敗)を挙げアメリカン・リーグ最多勝利投手に輝いた。しかし、1994年に怪我のため引退。
[編集] エピソード
- 桑田真澄投手と仲が良く、息子のミドルネームに「クワタ」と名付けたエピソードでも知られる。桑田の選手生活晩年にメジャー挑戦を決意させたのも、この頃桑田にメジャーについて語ったことが大きく影響している。娘のカーリー・ガリクソンはプロテニスプレーヤー。
- 社会的貢献をした小児糖尿病患者を表彰するため、1998年に日本糖尿病協会が制定した「ガリクソン賞」にその名が冠せられている。
- ミスタージャイアンツ・長嶋茂雄の息子・長嶋一茂にプロ入り初ホームランを打たれた。
[編集] メジャーでの通算成績
- 398試合、162勝136敗、1279奪三振、勝率.544、防御率3.93