ニューヨーク・ヤンキース
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ニューヨーク・ヤンキース(New York Yankees アメリカ英語ではヌー・ヨールク・ヤンキズ[nuː jɔːrk jæŋkiz]と発音する 聞く! ?)はアメリカ合衆国メジャーリーグ・アメリカンリーグ所属のプロ野球チーム。ニューヨーク・ブロンクスに本拠地を置く。
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[編集] 概要
世界のホームラン王として知られるベーブ・ルースが所属したチームで、本拠地であるヤンキー・スタジアムはルースの建てた家と言われる。
規律が厳しい事でも知られており、長髪、無精ヒゲは厳禁(整えられた口ひげは認められている:例)ランディ・ジョンソン、デービッド・ウェルズなど)。そのため大変な高給で知られるマニー・ラミレス(ボストン・レッドソックス)が2005年シーズン中にトレードを志願した際にもヤンキースは蚊帳の外だった。ジェイソン・ジアンビも2006年にレッドソックスから移籍したジョニー・デイモンもトレードマークの長髪と髭を剃った。
ベーブ・ルースから始まり、最近ではロジャー・クレメンスやジョニー・デイモンに至るまでボストン・レッドソックスとは選手を絡んだ因縁も深くライバル関係にあり、特に両チームのファン同士は犬猿の仲で知られ、ハリウッド映画オーシャンズ12では喧嘩を始める口実として、宇宙戦争では親子の不仲を表すネタとして使われているほどである。但し、ファン同士は犬猿の仲であるものの、選手同士では決して仲が悪いという訳ではない。試合前は、雑談や談笑をしている場面を見かけることが多々ある。
日本においては、まず1997年伊良部秀輝が加入したことで話題になった。メジャー移籍1年目こそ期待通りの活躍をし、オーナーから「和製ノーラン・ライアン」と称された。しかし、その後はあまり活躍できず、1999年オフにトレードされた。
その後、2003年に読売ジャイアンツから日本を代表する強打者の松井秀喜が移籍して再び話題になった。この年に読売ジャイアンツとの業務提携を結んでいる。読売ジャイアンツの前は日本ハムファイターズと交流をしていた。
2007年には井川慶投手がポスティングシステム(入札制度)により5年契約で入団し、今後の活躍が期待されている。
ヤンキースは39回ワールドシリーズに出場し、26回の優勝を飾っている。この数字は各球団中、圧倒的なものであり、次位のセントルイス・カージナルスが、ワールドシリーズで10回の優勝しかしておらず、更に出場回数も、カージナルスのワールドシリーズ16回出場である。北米地区のメジャースポーツの中で、ヤンキースと並ぶ成功を収めたといえるのは、スタンレーカップ選手権で24回優勝したNHLのモントリオール・カナディアンズくらいのものである。
[編集] 沿革
- 創立: 1901年にメリーランド州ボルティモア市を拠点としてアメリカンリーグに加盟。1903年のシーズン前にニューヨークに移転。
- 旧球団名:ボルティモア・オリオールズ(1901年-1902年)。ニューヨーク・ハイランダーズ(1903年-1910年)。 その後数年間、ヤンキースとハイランダーズの双方が使用された。なおこのときの「ボルティモア・オリオールズ」は、現在のボルチモア・オリオールズとはまったく別である。
- ホーム球場: ニューヨーク市ブロンクス地区のヤンキー・スタジアム
- ユニフォームの色: 白もしくはグレーに濃紺(ホーム用には、特徴的なピンストライプが入る。)
- 球団歌: "Here Come the Yankees" (1967年)、作曲はボブ・バンディン及びルー・ストールマン。ただし球場で一番良くかかっている曲はフランク・シナトラのニューヨーク・ニューヨークである。
- ワールドシリーズ制覇: 26回、1923年、1927年、1928年、1932年、1936年、1937年、1938年、1939年、1941年、1943年、1947年、1949年、1950年、1951年、1952年、1953年、1956年、1957年、1961年、1962年、1977年、1978年、1996年、1998年、1999年、2000年。
- アメリカンリーグ優勝: 39回 、1921年、1922年、1923年、1926年、1927年、1928年、1932年、1936年、1937年、1938年、1939年、1941年、1942年、1943年、1947年、1949年、1950年、1951年、1952年、1953年、1955年、1956年、1957年、1958年、1960年、1961年、1962年、1963年、1964年、1976年、1977年、1978年、1981年、1996年、1998年、1999年、2000年、2001年、2003年。
- アメリカンリーグ東部地区優勝: 16回、 1976年、1977年、1978年、1980年、1981年、1994年、1996年、1998年、1999年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2005年、2006年。
- アメリカンリーグ ワイルドカード: 2回、1995年、1997年。
[編集] 球団の歴史
[編集] 球団発足
1900年のシーズン終了後、アメリカンリーグが再び組織され、会長のバン・ジョンソンを中心として同リーグを新たなメジャーリーグとする旨の宣言がなされた。従来はマイナーリーグであった(1899年まではウエスタンリーグと呼ばれていた)ア・リーグは、既存の5チームに加えて、東海岸に3チームを加えた。この3チームのうちの一つをジョンソン会長及びア・リーグはニューヨークに置く事を意図していたが、ナショナルリーグのニューヨーク・ジャイアンツのオーナーがタマニー・ホール(注:民主党の派閥組織)とのコネを持っていたことから、政治的妨害の憂き目にあった。よって、代替案として新加入地区の一つは前年にナ・リーグのチームを失っていたメリーランド州ボルチモアに決定される。この時に創設されたボルティモア・オリオールズ(現在のオリオールズとは無関係)がヤンキースの起源である。
ヤンキースが1901年にオリオールズとして活動し始めた当初の監督はジョン・マグローであった。リーグ会長のバン・ジョンソンはフィールド上のラフプレーに対して厳格なルールを押し付けたが、これに反抗したマグローは1902年のシーズン半ばによりにもよってリーグを鞍替えしジャイアンツの監督となった。その一週間後に、ジャイアンツのオーナーはオリオールズの支配権を取得し、オリオールズ選手の大量引抜を敢行。この強引な行動に対しア・リーグ機構側は即座にオリオールズの支配権を取り戻し、さらにニューヨークへのチーム移転の意欲を未だに失っていない事を表明した。
ア・リーグとナ・リーグ間の闘争に巻き込まれた形となったオリオールズ(ヤンキース)だが、1903年に両者は「平和会議」を開催。選手との契約を巡る紛争を調停し、将来の協調を約した。また、ナ・リーグは、リーグの中心的な球団にならないとの条件付きで、ニューヨークにフランチャイズを置くことにも同意した。これにより、オリオールズは念願のニューヨーク移転を果たす。新オーナーのフランク・ファレルとウイリアム・デヴァリの最初の仕事は、ジャイアンツの妨害のない地域に球場設置場所を置く事であった。この両者は市政やギャンブル業界に強いコネを持っており、ファレルはカジノや複数の賭博場を有している一方、デヴァリはニューヨーク市警の警察署長であったが1902年初頭に汚職が発覚して追放されたばかりであった。
[編集] ハイランダーズ
ニューヨークにおける最初の本拠地は、マンハッタン島の最高地点に程近い165番通りと ブロードウェイの角に置かれた。これにちなんで、チームはニューヨーク・ハイランダーズに改名され、球場名もヒルトップ・パークと呼称された。なお、現在この球場の跡地にはコロンビア・プレスビタリアン病院が建っており、ヤンキースの選手が怪我をした際に訪れるケースが多い(2006年に松井秀喜選手がヤンキー・スタジアムでの試合中に左手首を骨折した際もこの病院に運ばれた)。
ハイランダーズはリーグ2位に1904年と1910年の2回なるものの、最初の15年間のほとんどは最下位が定位置であった。球団運営上の問題点や、ハル・チェース一塁手らによる八百長の噂などがチーム状態を悪くしていった。
ハイランダーズにとっての最大のチャンスは1904年シーズンに訪れた。全体的に好調な一年を送っていたが、ジャイアンツのオーナーは、もしハイランダーズみたいな“マイナー級”のチームがワールドシリーズに進出してきたら、試合を拒否する、と明言。結局優勝は最終戦に持ち込まれ、対戦相手はボストン・アメリカンズ(1908年にレッドソックスと改名)であったが、ハイランダーズの投手ジャック・チェスブロのサヨナラ暴投によりアメリカンズが優勝。しかし、それでもジャイアンツは試合を拒否し、その年のワールドシリーズ開催は中止された。ワールドシリーズが行われなかったのはこの年とストライキによる影響の1994年の2回のみである。しかし、この時のメディアによる辛辣な批判を浴びたジャイアンツのオーナーはワールドシリーズ制度の枠組み作りに精力的に動く事になる。なお、この試合以後100年間に及びレッドソックスがリーグ優勝を決める試合でヤンキースに勝つ事はなかった。
1911年にジャイアンツのホーム球場ポロ・グラウンズが火事で再建している際、ハイランダーズがヒルトップ・パークを貸し出しした事により両者の間で和解ムードが現れ始める。また、ハイランダーズはその縁もありホーム球場を1913年に同じポロ・グラウンズに移転した。
1900年代初頭から次第にボストンの“アメリカンズ”に対して“ヤンキース”という愛称が次第に広まりつつあった。新聞王ハーストのニューヨーク・イブニング・ジャーナルでも1904年4月14日の見出しに“ヤンキースがボストンを破る”とするなど、使用頻度も高まっており次第に定着しつつあった。結局1913年にチームがホーム球場をポロ・グラウンズに移転し、“ハイランダーズ(Highlanders)”としての正当性がなくなった事から、“ニューヨーク・ヤンキース”と正式に名称変更を行った。
1910年代半ばに、オーナーであるファーレルとデヴァリは、不仲となっており、加えて両者とも資金不足に陥っていた。よって、1915年初頭に、球団はジェイコブ・ルパート大佐とティリンゴースト・ヒューストン司令官に売却された。ルパートはルパート醸造所の財産の相続人で、タマリーホールとも予てから関係があり、8年間連邦議員を務めていたルパートは後に「45万ドルで、際立った才能を持つ選手も無く、さして評価もされていない、おまけに自前の球場すらない孤児の球団を買ったよ」と述懐している。しかし、これでカネと意欲を持つオーナーと巡り合った事で、ヤンキースはルパートが予想だにしていなかった快進撃を始める事になる。
[編集] 第1期黄金時代
買収後の数年間に渡って、新オーナーは選手の報酬総額を高くしていった。そして皮肉な事に、後にチームの成功に貢献することとなる新規獲得選手はボストン・レッドソックス出身であった。当時レッドソックスのオーナーは劇場興行主のハリー・フレイジーであったが、彼はチームをローンで購入したため支払に窮しており、さらにはブロードウェイのショーの制作まで行っていたため手っ取り早い収入を得る事が重要だった。1919年から1922年まで、ヤンキースはレッドソックスから、投手ではワイト・ホイト、カール・メイズ、アーブ・ぺノック、捕手のウォリー・シャン、遊撃手のエヴァレット・スコット、三塁手のジョー・ドュガンを獲得した。
しかしながら、最大の獲得選手は1920年1月に入団し、投手から野手に転じたベーブ・ルースである。野球界で最高額の年俸をもらっていたのにも関わらずさらなる増額を要求していた彼に払えるだけのお金をレッドソックス側は用意しておらず、ルースが前年に当時の年間最多本塁打記録(29本)を更新していたのにヤンキースへと放出した。彼の獲得費用は、12万5千ドルの金銭とレッドソックスの本拠地フェンウェイ・パークが抵当に付された借金の30万ドルであった。この時レッドソックス側はヤンキースに有名選手を放出する事により、良きライバルとして互いの興行収入を上げようとの狙いもあった。しかし、ルースを放出して以後84年間に及びレッドソックスがワールドシリーズで勝つ事は無かった(バンビーノの呪い参照)。
この時期におけるその他の重要な新加入者は、ミラー・ハギンス監督と、GMのエド・バローである。ハギンス監督は、1919年に、ヒューストンがヨーロッパに出征中にルパートによって雇われた(これをきっかけとして、両オーナーの間の溝が深まり、結局1923年にルパートはヒューストンの持分を買い取りオーナー職から追い出す事となる)。バローは、1920年のシーズン終了後GMに就任した。彼はレッドソックスからヤンキースに入団した選手同様に、1918年からレッドソックスで働いていた。バローは、GM兼球団代表をその後25年間勤め、その期間のチームの成功に貢献した。とりわけヤンキースのファーム制度の整備に大きく寄与したことが特筆される。
ルースによって放たれたホームランにより野球人気が大衆の間にも浸透し、おまけにヤンキースは地主のジャイアンツのファンをも引き付け始めた。1921年に、ヤンキースは1922年のシーズン終了後までには当時間借りしていたポロ・グラウンズからの移転を半ば強制的に勧められた。ジャイアンツのマグロー監督は「彼らはどっか遠い所に行ってしまった方がいい、クイーンズ区とか」と述べたが、皮肉にもヤンキースの新球場はポロ・グラウンズからハーレム川を挟んで反対側の土地に建設された。1923年に、ブロンクス161番とリバー通りの角にヤンキー・スタジアムが完成。地下鉄の駅がライト後方にあったのが直接の決め手だったと言われている。当時としては最先端のセメント工法で建てられた史上初の3階建て球場で、収容人員は驚異の5万8千人であった。まさに、「ルースが建てた家」と呼ばれるのにふさわしい威容である。スタジアムでのこけら落としとなる第1戦でルースは見事に本塁打を打ち、貫禄を見せ付けた。なお、このシーズンにルースが記録した打率.393は今でもヤンキースのチーム記録である。
1921年から1928年まで、ヤンキースは第1期黄金時代を迎え、アメリカンリーグで6回優勝し、ワールドシリーズでは3回優勝した。1921年から1923年を通じて、ワールドシリーズでジャイアンツと合いまみえ、1度目、2度目は敗れたが、1923年には雪辱を果たした。この時に相手側にいたケーシー・ステンゲル監督は後にヤンキース監督に就任し、数々の優勝をもたらす事になる。
1927年のチームは、余りにも豪華メンバーで、「殺人打線」(Murderer's Row)として知られ、しばしば野球史上最強のチームに挙げられる(もっとも、1939年や1998年のメンバーについても強力なため、同様に史上最強と呼ばれることもある)。当時のア・リーグ記録である110勝44敗という好成績を残し、ピッツバーグ・パイレーツとのワールドシリーズでも4連勝で危なげなく優勝。1927年のルースのシーズン本塁打60本は、アメリカンリーグの他の全チームのトータル本数を上回り、その後34年間に渡って最高記録であった。また、ルー・ゲーリッグ一塁手も大ブレークを遂げ、打率.373に47本塁打を打った。主にルースが3番、ゲーリッグが4番を打っていたが、その後に控える打者も中々の強打者であった。ボブ・ミューゼル外野手は打率.337に103打点、トニー・ラゼリも打率.309、18本塁打(リーグ3位)102打点を記録。この打線の特徴は単なる重量打線だっただけではなく、スピードも大きな武器で、ミューゼルは24盗塁、ラゼリも22盗塁を挙げる。一番打者のアール・コームスは打率.356をマークし、231安打は1986年にドン・マティングリーが破るまでチーム記録であった。1927年のヤンキースチーム打率は.307だった。
1928年には再びア・リーグ優勝チームとして返り咲き、セントルイス・カージナルス相手のワールドシリーズで4連勝し、制覇。ルースの16打席10安打の打率.625はワールドシリーズ記録であり、そのうちの3本は本塁打であった。ゲーリッグも負けじと11打数6安打に4本塁打を記録。その後もア・リーグ内でフィラデルフィア・アスレチックスと優勝争いを繰り広げ、1932年に再々度ワールドシリーズに出場。この時の相手のシカゴ・カブスも4連勝で退け、ワールドシリーズでの連勝記録を12に伸ばした。これは2000年ワールドシリーズでヤンキースが再び記録更新するまでの大リーグ記録であった。この1932年のワールドシリーズで、ルースがリグレー・フィールドで有名な予告ホームランを打っている。
[編集] マッカーシー時代
ハギンス監督が急死した後に就任したジョー・マッカーシー監督のもと、ヤンキースは新たに進化を遂げた。サンフランシスコ出身の若い中堅手ジョー・ディマジオの登場はチームにとってのポスト・ルースとも言える存在であった。ディマジオはルーキー年の1936年に打率.323、29本塁打125打点を記録し、強烈なインパクトを残した形でのデビューだった。
ディマジオのほかにもゲーリッグ、フランク・クロセッティらに代表されるような強打者と並びにレッド・ラフィングやレフティー・ゴメスといった強力な投手陣とそれを支える女房役ビル・ディッキーらの活躍でヤンキースは1936年から1939年にかけてワールドシリーズ4連覇を達成。1939年の優勝は筋萎縮性側索硬化症と診断されたゲーリッグをほぼ欠かした状態で得たものだった。
この時のヤンキースの最大のライバルはデトロイト・タイガースであった。タイガースはヤンキースの4連覇前の2年間優勝してヤンキースのワールドシリーズ出場を阻止しており、また、5連覇を防いだのも彼らであった。しかし、ヤンキースはワールドシリーズに出てさえしまえば強かった。1936年のワールドシリーズでのジャイアンツとの試合では18-4で下し、同一チームによる最多得点記録(2005年まで)を成し遂げた。そのシリーズでは4勝2敗で勝ち取り、翌年も4勝1敗。さらに、1938年のシカゴ・カブス、1939年のシンシナティ・レッズとの対戦ではいずれも4連勝でワールドシリーズを勝ち抜けた。
[編集] 1950~1960年代
1950年代、ケイシー・ステンゲル監督のもとでは、マッカーシー時代のチームを凌駕する成績を収めた。ステンゲル監督は、就任後5年間、すなわち1949年から1953年を通じて強力打線でワールドシリーズ5連覇を達成した。同監督は、通算12年間でリーグ優勝10度、ワールドシリーズ優勝7度の成績であった。主力選手は、捕手のヨギ・ベラ、外野手のミッキー・マントル、投手のホワイティ・フォードであったが、マッカーシー時代の有名選手を取り揃えたチームとは異なって、1950年代のヤンキースの成功はステンゲル監督の十人並みの選手の能力を最大限に引き出す巧みな選手起用法に負うところが大きかった。
そのステンゲル監督も、1960年のパイレーツとのワールドシリーズで最終戦の最終回にビル・マゼロスキーにホームランを打たれてサヨナラ負けを喫すると、この場面でフォードを起用しなかったことに批判が集中し、その責任を取り辞任した。
1964年のシーズン終了後、CBSが、ダン・トッピングとデル・ウェッブから1120万ドルでヤンキースを買収した。トッピングとウェッブは20年間に渡り球団のオーナーを務めたが、ワールドシリーズ出場を逸したのはたった5度であり、同シリーズでは10勝5敗の成績を残している。
しかし、CBSがオーナーとなった1965年以降、ヤンキースは冬の時代を迎えた。ジャッキー・ロビンソン以降各球団が黒人に門戸を開き始めるもヤンキースは黒人登録をためらっていた。それが災いしたのか1966年にはリーグ最下位にまで転落するなどヤンキースは大きく弱体化し、下位に甘んじることになってしまった。
[編集] 再び栄光を
1970年代には、ビリー・マーチン監督の時に、ジョージ・スタインブレナーらが1973年1月3日にCBSから1,000万ドルで球団を買収。老朽化したヤンキー・スタジアムを改装し、マーチン監督の解雇と雇用を何度も繰り返したり、スター選手のレジー・ジャクソンとの反目など、1970年代後半のヤンキースは、一進一退を演じた。レジー・ジャクソンの放った1977年のワールドシリーズでの3打席連続本塁打(しかもすべて初球!)は、マーチン監督とスタインブレナーオーナーの確執と同程度に、当時の時代を特徴付けるものであった。
[編集] 低迷、そして名門復活
1970年代後半には黄金時代の再来を予感させたヤンキースだが、1980年代に入ると長い低迷期を迎えてしまい、最下位争いをするチームに成り下がる。デーブ・ウィンフィールドなどフリーエージェント権を行使した大物選手に大金を投じるものの、結果は芳しくなく、1981年を最後にワールドシリーズ出場からも遠ざかった。また1990年には、ヤンキースの投手アンディ・ホーキンスが史上初の、打者との対戦をしないで敗戦投手となってしまう。これは、3人を歩かせたのち中堅手がランナーを置いてエラーをしたもので、塁上の3人と打者走者も生還するという珍事であった。
1990年、オーナーのスタインブレナーがリーグより、オーナー停職の処分を受けたことから改善の兆しが現れ始めた。上層部からの妨害なしに首尾一貫した監督采配ができるようになるというのも一因であったが、この頃に就任したGMのジーン・マイケル(後にボブ・ワトソン)とバック・ショウォルター監督のもと、ヤンキースのチーム編成方針を、才能を買うことから、ファームで才能ある若手を育てるように変更した。1994年にはその効果が現れ、選手のストライキで期間短縮されたシーズンではあったが、ヤンキースはアメリカンリーグ最高の成績を収めた。翌1995年には、ワイルドカードにより1981年以来となるプレーオフを勝ちあがった。シアトル・マリナーズとの記憶に残る対戦に敗北したが、選手たちに自信をつけさせた。
ショウォルター監督は1995年のシーズン後、オーナーやコーチ陣との確執から退団し、ジョー・トーリ監督に交代した。トーリはそれまでニューヨーク・メッツ、アトランタ・ブレーブスなど3つのチームで計15年間監督を務めながら、一度もプレーオフにすら出場したことがないということもあり、当初は時代遅れの人選であるとの嘲笑を受けた(あるタブロイド紙には「無知なジョー」との見出しが踊ったこともある)。しかし、トーリ監督の落ち着き払った手腕により1996年ついにワールドシリーズに進出し、アトランタ・ブレーブスを第6戦で下して18年ぶりにヤンキースはワールドチャンピオンに返り咲いた。ボブ・ワトソンGMは、1997年にワールドシリーズの連続出場を逃すと退任し、ブライアン・キャッシュマンがGMに就任した。しかしながら、トーリ監督とキャッシュマンGM体制は、基本的には、前任者のマイケル、ワトソン及びショウォルターらの築いてきた基礎によって勝利を獲得したものであり、中でも、デレク・ジーター、アンディ・ペティット、ホルヘ・ポサダ、マリアーノ・リベラやバーニー・ウイリアムスら、ヤンキース傘下のファームで育った生え抜き選手の成長に負うところが大きかった。また、加えてヤンキースは財政面での有利さを生かして他のチームを傘下に収め、1990年代にも何度も大規模な選手補強を敢行した。ただ、大物選手もいることはいるが、身の丈に合った選手の獲得が主なもので、ポール・オニール、デビッド・コーン、ティノ・マルティネス、デビッド・ウェルズ、大物選手ではウェイド・ボッグスやロジャー・クレメンスらを獲得している。
1998年から2000年の間、1970年代初頭のオークランド・アスレチックス以来のワールドシリーズ3連覇を達成した。1998年と1999年にはそれぞれサンディエゴ・パドレスとアトランタ・ブレーブスを下し、記念すべき2000年には同じ市にあるニューヨーク・メッツと1956年以来となる「サブウェイ・シリーズ」で対戦し、4勝1敗でこれを下した。
[編集] 新世紀
2001年9月11日の世界貿易センタービルのテロ事件の傷跡癒えない2001年10月、東地区でヤンキースはオークランド・アスレチックスを3勝2敗で下し、リーグ優勝決定戦ではシアトル・マリナーズを4勝1敗で破ったが、ワールドシリーズで対アリゾナ・ダイヤモンドバックス第7戦でサヨナラ負けを喫し、ワールドチャンピオン4連覇を逃した。
2003年10月、ヤンキースは宿敵ボストン・レッドソックスをリーグ優勝決定戦の第7戦で辛うじて下した。乱闘スレスレの第3戦、そして退場劇が注目を集め、最終第7戦の11回裏にアーロン・ブーンのサヨナラ本塁打により幕を閉じた。
2001年のワールドシリーズ敗退により、1990年代ヤンキースの栄華は終わり、主軸選手の引退やトレードが相継いだ。2002年のプレーオフにはアナハイム・エンゼルスによってヤンキースは早々に敗退したことで、球団の運営方針は急速に変わり、フリーエージェントや大型トレードが行われ始める。2003年もワールドシリーズでフロリダ・マーリンズに2勝4敗で敗れたためかこの傾向が続き、松井秀喜、ゲーリー・シェフィールド、ケニー・ロフトン外野手、ケビン・ブラウン、ハビエル・バスケス両投手らを獲得、2004年2月にはアルフォンソ・ソリアーノらとのトレードでアレックス・ロドリゲスを獲得したが、レギュラーシーズンでは地区優勝するもリーグ優勝決定戦 (ALCS)で宿敵ボストン・レッドソックスに3勝0敗からまさかの4連敗を喫し、ワールドシリーズ出場はならなかった。2005年も地区シリーズでロサンゼルス・エンゼルスに、2006年にはデトロイト・タイガースに敗れてしまった。
他のどのチームよりもはるかに年俸が高く、そのパワーをもってヤンキースは14年連続でポストシーズン進出を果たしたものの、ワールドシリーズでは7度も優勝を逃している。このため、90年代に成功した一因である、ファームでの若手育成も必要だという意見も出ている。
[編集] 選手名鑑
[編集] 殿堂入り選手
- フランク・ベーカー (Frank Baker])
- ヨギ・ベラ (Yogi Berra)
- フランク・チャンス (Frank Chance)
- ジャック・チェスブロ (Jack Chesbro)
- アール・コームス (Earle Combs)
- スタン・コヴェルスキー (Stan Coveleski)
- ビル・ディッキー (Bill Dickey)
- ジョー・ディマジオ (Joe DiMaggio)
- レオ・ドローチャー (Leo Durocher)
- ホワイティー・フォード (Whitey Ford)
- ルー・ゲーリッグ (Lou Gehrig)
- レフティ・ゴメス (Lefty Gomez)
- クラーク・グリフィス (Clark Griffith)
- バーリー・グリムス (Burleigh Grimes)
- ワイト・ホイト (Waite Hoyt)
- キャットフィッシュ・ハンター (Catfish Hunter)
- レジー・ジャクソン (Reggie Jackson)
- ウイリー・キーラー (Willie Keeler)
- トニー・ラゼリ (Tony Lazzeri)
- ミッキー・マントル (Mickey Mantle)
- ビル・マッケニー (Bill McKechnie)
- ジョニー・マイズ (Johnny Mize)
- フィル・ニークロ (Phil Niekro)
- ハーブ・ぺノック (Herb Pennock)
- ゲイロード・ペリー (Gaylord Perry)
- ブランチ・リッキー (Branch Rickey)
- フィル・リズート (Phil Rizzuto)
- レッド・ラフィング (Red Ruffing)
- ベーブ・ルース (Babe Ruth)
- ジョー・ソーウェル (Joe Sewell)
- エノス・スローター (Enos Slaughter)
- ダズィー・ヴァンス (Dazzy Vance)
- ポール・ワナー (Paul Waner)
- デーブ・ウィンフィールド (Dave Winfield)
[編集] 現役選手
- T.J.ビーム(T.J. Beam)
- コルター・ビーン(Colter Bean)
- クリス・ブリットン(Chris Britton)
- ブライアン・ブルネー(Brian Bruney)
- カイル・ファーンズワース(Kyle Farnsworth)
- ショーン・ヘン(Sean Henn)
- 井川慶(Kei Igawa)
- ジェフ・カーステンス(Jeff Karstens)
- ジェフ・ケナード(Jeff Kennard)
- マイク・ムッシーナ(Mike Mussina)
- マイク・マイヤーズ(Mike Myers)
- カール・パバーノ(Carl Pavano)
- アンディ・ペティット(Andy Pettitte)
- スコット・プロクター(Scott Proctor)
- ダレル・ラスナー(Darrell Rasner)
- マリアーノ・リベラ(Marino Rivera)
- ハンベルト・サンチェス(Humberto Sanchez)
- ホゼ・ベラス(Jose Veras)
- ルイス・ビスカイーノ(Luis Vizcaino)
- 王建民(Chien-Ming wang)
- チェイス・ライト(Chase Wright)
- ウィル・ニエベス(Wil Nieves)
- ホルヘ・ポサーダ(Jorge Posada)
- ミゲール・カイロ(Miguel Cairo)
- ロビンソン・カノー(Robinson Cano)
- アルベルト・ゴンザレス(Alberto Gonzalez)
- デレク・ジーター(Derek Jeter)
- ダグ・ミントケイビッチ(Doug Mientkiewicz)
- ホワン・ミランダ(Juan Miranda)
- ジョシュ・フェルプス(Josh Phelps)
- アンディ・フィリップス(Andy Phillips)
- アレックス・ロドリゲス(Alex Rodriguez)
- ボビー・アブレイユ(Bobby Abreu)
- メルキー・カブレラ(Melky Cabrera)
- ジョニー・デイモン(Johnny Damon)
- 松井秀喜(Hideki Matsui)
- ケビン・リース(Kevin Reese)
- ブロンソン・サーディンハ(Bronson Sardinha)
- ケビン・トンプソン(Kevin Thompson)
- ジェイソン・ジアンビ(Jason Giambi)
- フィル・ヒューズ(Phil Hughes)
[編集] 往年の名選手
- ジム・アボット (Jim Abbott)
- ジェシー・バーフィールド (Jesse Barfield)
- ボビー・ボンズ (Bobby Bonds)
- ホセ・カンセコ (Jose Canseco、1988年MLB最優秀選手)
- ロジャー・クレメンス (Roger Clemens、1986年MLB最優秀選手、1986年、1987年、1991年、1997年、1998年、2000年サイ・ヤング賞)
- セシル・フィルダー (Cecil Fielder)
- ドワイト・グッデン (Dwight Gooden、1985年サイ・ヤング賞)
- ロン・ギドリー (Ron Guidry、1978年サイ・ヤング賞)
- ランディ・ジョンソン(Randy Johnson)
- ロジャー・マリス (Roger Maris、1961年、1962年MLB最優秀選手)
- ビリー・マーティン (Billy Martin)
- ドン・マッティグリー (Don Mattingly、1985年MLB最優秀選手)
- ジョー・ニークロ (Joe Niekro)
- ポール・オニール (Paul O'Neill)
- ジョー・ペピトーン (Joe Pepitone)
- ルー・ピネラ (Lou Piniella)
- ゲイリー・シェフィールド (Gary Sheffield)
- アルフォンソ・ソリアーノ (Alfonso Soriano)
[編集] 永久欠番
17人(8番が2人いるので16種)の背番号が永久欠番となっており、これはメジャーリーグ最多である。
ファンの間では、次の永久欠番となるのは元選手のポール・オニールの21番ではないか、と言われている。また現役では、現キャプテンのデレク・ジーターの2番、現監督のジョー・トーリの6番、マリアノ・リベラの42番、バーニー・ウィリアムスの51番などが候補となっている。2番と6番が永久欠番になると、ヤンキースの1ケタの背番号すべてが永久欠番になる。
リベラの42番については、もともとは彼が現役引退直後にジャッキー・ロビンソンを称えるために永久欠番になる予定であったが、リベラ自身が既に永久欠番にふさわしい働きをしており、またチームでは背番号8が2選手の欠番となっているので、それと同様の扱いになるものと思われる。
[編集] キャプテン
ヤンキースにおけるチームキャプテンは名誉職である。
- ハル・チェース、1912年
- ロジャー・ペキンポー、1914年から1921年まで
- ベーブ・ルース、1922年5月20日から1922年5月25日まで
- エヴァート・スコット、1922年から1925年まで
- ルー・ゲーリッグ、1935年4月21日から1941年6月2日まで
- サーマン・マンソン、1976年4月17日から1979年8月2日まで
- グレイグ・ネトルス、1982年1月29日から1984年3月30日まで
- ロン・ギドリー、1986年3月4日から1989年7月12日まで(ウイリー・ランドルフと共同)
- ウイリー・ランドルフ、1986年3月4日から1989年10月2日まで (ロン・ギドリーと共同)
- ドン・マッティングリー、1991年2月28日から1995年まで
- デレク・ジーター、2003年6月4日から
[編集] オーナー
- 1901年-1902年: 不明
- 1903年-1915年: フランク・ファレル及びウイリアム・デヴァリー
- 1915年-1923年: ジェイコブ・ルパート及びティリンガスト・ヒューストン
- 1923年-1939年: ジェイコブ・ルパート
- 1939年-1945年: ジェイコブ・ルパートの相続人
- 1945年-1947年: ラリー・マックフィル、ダン・トッピング及びデル・ウェッブ
- 1947年-1964年: ダン・トッピング及びデル・ウェッブ
- 1964年-1973年: CBS
- 1973年-現在: ジョージ・スタインブレナー
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[編集] 傘下マイナーチーム
AAA
- スクラントン・ウィルクスバリ・ヤンキース(Scranton/Wilkes-Barre Yankees)
AA
- トレントン・サンダー(Trenton Thunder)
A
- チャールストン・リバードッグス(Charleston Riverdogs)
- タンパ・ヤンキース(Tampa Yankees)
- スタテンアイランド・ヤンキース(Staten Island Yankees)
ルーキーリーグ
- ガルフコースト・ヤンキース(Gulf Coast Yankees)
[編集] チーム名の由来
Yankeeとは米国人の俗称で、特にニューイングランド周辺の米国人が好んで使う。そしてYankeesは、オランダ語で「あいつら」を意味するJan Keesが語源だといわれている。この言葉はニューヨークを開拓したオランダ人が英国人に対して指していた一種の蔑称であったが、今日に至ってはそのニュアンスはない。
[編集] ロゴ・マークの由来
ロゴはニューヨーク市警の名誉勲章が元となっている。これをデザインしたのは、アクセサリー等で有名なティファニーである。
[編集] その他
- 2007年度の入場券の売り上げが、2007年1月31日の発売開始から3日目で300万枚に達した。2006年度の300万枚到達日が同年3月2日だったことから1ヶ月早く売り上げたことになる。
[編集] 外部リンク
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