ピーター・トッシュ
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ピーター・トッシュ (Peter Tosh, 1944年10月9日 -1987年9月11日)は、ラスタファリ運動の先駆者であり、レゲエ・ミュージシャンである。
ピーター・トッシュ(本名ウィンストン・ヒュバート・マキントシュ, Winston Hubert McIntosh)は、キングストン市のスラム街、トレンチタウンで育った。短気な性格であったため、歩くカミソリ(Stepping Razor)と名付けられた。後に、彼の初期の歌の師であるジョー・ヒッグスによって、同名の歌が作られている。トッシュは、アメリカのラジオ局から流れる曲に影響を受けて、ギターと歌を始める。1987年に自宅で殺害された。
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[編集] ウェイラーズとして
1960年代前半に、トッシュは歌の師であるジョー・ヒッグスを通じて、ボブ・マーレイとバニー・ウェイラーと出会う。ボブとバニーと共にハーモニを完成させた後、トッシュはボブにギターを弾くのを教えた。1962年、計6名でウェイリング・ウェイラーズ(The Wailing Wailers)を結成する。ウェイリング・ウェイラーズは、1965年の終わりに3名になるまでに、最初のスカの大ヒットシングル「シマー・ダウン」の他、何曲かを録音した。
ボブ・マーレィは1966年の大半を母親と共にアメリカで過ごすが、1967年前半にジャマイカに戻る。 ボブが米国から戻ったとき、ピーターとバニーはすでにラスタファリアンで、3人はラスタファリ運動に大きくかかわるようになった。その後すぐ、彼らはグループをウェイラーズ(The Wailers)に改名した。
ウェイラーズは、スカのアップテンポの曲から、遅くなったロックステディのテンポの曲まで、政治的、社会的なメッセージの歌詞を乗せて歌った。リー・リーによって「ソウル・レベル」「ダピー・カンカラー」「スモール・アクス」を含む初期レゲエのヒット曲が録音される以前に、彼らはアメリカ人シンガーのジョニー・ナッシュの歌をいくつか作曲している。
1970年、ベーシストのアストン・バレットと、彼の兄弟、ドラマーのカールトン・バレットの加によって、ウェイラーズはカリブ圏のスーパースターになった。1973年、ウェイラーズは、クリス・ブラックウェルとアイランド・レコード社と契約を結んで、彼らのデビューアルバム、「キャッチ・ア・ファイア」をリリースした。同年、「バーニン」もリリースする。
1973年に、トッシュは運転中に橋から転落し、同乗していたガールフレンドは死亡、彼自身も頭蓋骨を痛めたが生き残った。1974年に、アイランド・レコード社のクリス・ブラックウェル社長はピーター・トッシュのソロ・アルバムを発行することを拒否した後に、不公平な処遇を感じたトッシュとバニーはウェイラーズを去ることになる。
[編集] ソロ活動
1976年、CBSレコード社から、ピーター・トッシュ名義で、ソロのデビューアルバム、「リーガライズ・イット」(Legalize It, 邦題『解放せよ』)をリリースした。タイトルトラックは、すぐにマリファナ解放運動のための聖歌になった。ボブ・マーレィが「ワン・ラブ」のメッセージを説いていた時、ピーター・トッシュは偽善的な「shitstem」(システム)を罵倒し、ジャマイカ警察の格の目標になった。彼はいつも好戦的なアプローチを取っていた。
1987年にはアルバム「ノー・ニュークリア・ウォー」(No Nuclear War)でグラミー賞を受賞する。彼は1987年9月11日に自宅で殺害された。
[編集] ディスコグラフィー
[編集] アルバム
- Legalize It (1976)
- Live and Dangerous (1976)
- Equal Rights (1977)
- Bush Doctor (1978)
- Mystic Man (1979)
- Wanted Dread And Alive (1981)
- Mama Africa (1983)
- Captured Live (1984)
- No Nuclear War (1987)
[編集] コンピレーション
- Collection Gold (1994)
- The Toughest (1996)
- Honorary Citizen (1997)
- Scrolls Of The Prophet: The Best of Peter Tosh (1999)
- Arise Black Man (1999)
- The Essential Peter Tosh - the Columbia Years (2003)
[編集] 外部リンク
カテゴリ: ジャマイカのミュージシャン | 1944年生 | 1987年没