ピート・アレクサンダー
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ピート・アレクサンダー(Grover Cleveland "Pete" Alexander、1887年2月26日 - 1950年11月4日)は、1910~1920年代のアメリカ・メジャーリーグの野球選手。ポジションは投手。ネブラスカ州生まれ。右投げ右打ち。愛称は"オールド・ピート(Old Pete)"。様々な苦境の中でメジャーリーグ歴代3位の373勝を挙げた。
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[編集] 略歴
- 1887年生まれ。兄弟は13人いた。1907年に初めてのプロ契約をしたが、癲癇(てんかん)発作がもとで契約を破棄される。
- 1910年にフィリーズからメジャーにデビューし、28勝を挙げてルーキーでの最多勝投手となる。フィリーズでの最初の7年間で、1915年の投手三冠を含め、最多勝を5回、最多奪三振5回、最優秀防御率2回など、主要なリーグタイトルをほぼ毎年のように獲得する活躍を見せた。またこの7年のうち6年の投球回はリーグ最多であった。アレクサンダーの活躍で、1915年にフィリーズは初めてのリーグ優勝を遂げる。
- 1917年、徴兵を恐れたフィリーズはアレクサンダーをカブスに放出。フィリーズの予想通り彼は1918年に徴兵され、第一次世界大戦でフランスに派兵される。この年は3試合に登板しただけであった。戦地から戻った後の1920年、彼はカブスで2度目の投手三冠を獲得する。その後成績は徐々に落ち始め、カブスは飲酒と発作がひどくなるばかりだった彼を1926年にカージナルスに放出。その年のワールドシリーズで、アレクサンダーは後年「殺人打線」と呼ばれる強力打線のヤンキースを相手に2勝する好投を見せ、ワールドシリーズ制覇に貢献する。1927年にはキャリア最後の20勝を上げ、1930年に引退。
- 1938年、記者投票によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出された。1950年、ネブラスカ州セントポールで死去。
- 2001年に永久欠番選手に指定されたが、アレクサンダーの現役時代は背番号がないため、チームの花文字である「P」を欠番代わりに使用されている。
[編集] 所属球団
- フィラデルフィア・フィリーズ(1911-1917,1930年)
- シカゴ・カブス(1918-1926年)
- セントルイス・カージナルス(1926-1929年)
[編集] 通算成績
[編集] 投手成績
- 登板:696
- 先発:600
- 投球回:5190
- 勝利:373
- 完封:90
- 敗戦:208
- 奪三振:2198
- 被安打:4868
- 被本塁打:164
- 与四球:951
- 与死球:70
- 自責点:1476
- 暴投:39
- 防御率:2.56
[編集] 獲得タイトル・記録
- 投手三冠:3回(1915年,1916年,1920年)
- 最多勝:6回(1911,1914,1915,1916,1917,1920年)
- 最優秀防御率:4回、1915年(1.22),1916年(1.55),1919年(1.72),1920年(1.91)
- 最多奪三振:6回(1912,1914,1915,1916,1917,1920年)
- リーグ優勝:3回(1915,1926,1928年)
- MLBオールセンチュリー・チームにノミネート(1999年)
- 通算完封数ナショナルリーグ記録:90
- ※メジャーリーグ記録はウォルター・ジョンソンの110
[編集] エピソード
- 第一次世界大戦に徴兵により出兵した1918年以降は、彼は砲弾ショックや部分的な難聴等の戦時後遺症を患い、それに伴って持病の癲癇(てんかん)もひどくなっていたそうである。それでも1920年には投手三冠を獲得したが、その後飲酒が常態化し、1921年以降の成績は徐々に下がっていた。
- 引退後の1931年以降、彼は宗教団体"House of David"の野球チームで投げていた。
- 1952年に彼の自伝映画「The Winning Team」が撮影された時、アレクサンダー役は後の大統領であるロナルド・レーガンが演じた。
[編集] 出典・外部リンク
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