フラーテス2世
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フラーテス2世(Phraates II、在位:紀元前138年 - 紀元前128年)は、アルサケス朝パルティアの王。幼くして即位し、前王が拡張した領土を維持するためにセレウコス朝と戦ったが、サカ人との戦いで戦死した。
[編集] 来歴
前王ミトラダテス1世(大王)と王妃リインヌの息子として生まれた。即位した時はまだ幼く、母リインヌが摂政(共同統治者)となった。即位直後からパルティアは大きな脅威に曝されていた。それは大月氏の移動であった。月氏は元来タリム盆地に拠点を置いた遊牧民であり強勢を誇ったが、匈奴が冒頓単于の下で強大化するとそれに押されて移動を開始し、フラーテス2世の治世にはパルティアに隣接するバクトリア地方にまで侵入しており、これにともなって周辺の遊牧民諸部族も大きく動揺していた。
匈奴の膨張に端を発する遊牧民の移動圧力はパルティアにもかかっており、フラーテス2世とリインヌは遊牧民侵入への対応に忙殺された。更に西方ではセレウコス朝のアンティオコス7世が、ミトラダテス1世によって奪われた領土を奪回すべく紀元前131年に大規模な遠征を開始した。パルティア領内のギリシア人の多くはセレウコス朝の「ギリシア人王」の到来を歓迎してパルティアに反旗を翻し、アンティオコス7世の遠征軍に参加した。
3度に渡る戦いでパルティア軍は相次いで敗退し、バビロニアとメディアがセレウコス朝の支配下に置かれた後、講和会議がもたれたが決裂し、アンティオコス7世は更にパルティア本土を目指して進軍した。しかしパルティア地方に侵入したアンティオコス7世は軍の宿営のために現地住民の住居を接収するなどしたため、パルティア地方の住民達の激しい反乱を招いた。この反乱はセレウコス朝の軍団が宿営していた都市の大半で発生し、極めて組織的であったといわれる。フラーテス2世は反乱鎮圧に奔走するアンティオコス7世を攻撃してこれを戦死させ、セレウコス朝の脅威を乗り切った。
反撃に転じたフラーテス2世はメディア、ついでバビロニアを奪回し、更にセレウコス朝の中心地シリアを目指したが、東方でフラーテス2世が自軍に組み込んでいたサカ人達が反乱を起こした。フラーテス2世は新たにセレウコス朝との戦いで捕虜にしたギリシア人を軍団に組み込んでサカ人討伐へ向かったが、このギリシア人達もサカ人側につき、紀元前128年にフラーテス2世は戦死した。
死後、叔父のアルタバヌス1世が王位を継承した。