ミトラダテス1世
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ミトラダテス1世(Mithradates I、在位紀元前171年 - 紀元前138年)は、アルサケス朝パルティアの王。大国としてのパルティアの地位を決定付けたという意味でパルティア初期の王達の中でも最も重要な人物の1人であり、「大王(バシレオス・メガス)」を名乗った。しばしばミトリダテスとも表記され、現地語ではミフルダートと呼ばれたと考えられる。
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[編集] 来歴
[編集] エウクラティデスとの戦い
先々王フリアパティウスの息子として生まれ、兄王フラーテス1世によって後継者に指名されて王となった。即位10後の紀元前160年前後から対外戦争に没頭した。当時パルティアの近郊ではミトラダテス1世と時を同じくしてグレコ・バクトリア王国の王となったエウクラティデスが勢力を拡張していたが、ミトラダテス1世はこのエウクラティデスと戦ってアスピオンとトゥリワの2州を奪取した。またマルギアナなども支配下に納めて、周辺でのパルティアの優位を決定的なものとした。
[編集] 西方遠征
続いて行われた西方遠征では、セレウコス朝のイラン高原支配の拠点であったメディアが焦点となった。メディア総督ティマルコスとの戦いでミトラダテス1世は苦戦したが、ティマルコスはセレウコス朝内部でのアンティオコス5世とデメトリオス1世の王位継承争いに乗じて独立を図り、デメトリオス1世の討伐を受けて殺害された。そのデメトリオス1世もアレクサンドロス1世によって殺害され王位を奪われるに及び、メディア地方の防御は緩み、ミトラダテス1世は紀元前148年から紀元前147年にかけて、メディアの首都エクバタナを陥落させてこれを支配下に置くことに成功した。メディア征服以後、ミトラダテス1世は大王(バシレオス・メガス)を称するようになる。
紀元前141年にはバビロニア地方に侵攻してセレウコス朝のバビロニア支配の拠点セレウキアを陥落させ、同年中にメソポタミア南部のウルクまで進出し、翌年にはセレウコス朝から自立していたエリマイス王国に侵攻してスサを陥落させ、メソポタミアの大半を支配下に収めた。その後、東方でサカ人の侵入があったために、ミトラダテスはバカシスなどの将軍達にバビロニアとメディアを任せ、サカ人の撃退に向かった。
[編集] セレウコス朝の反撃
セレウコス朝では尚も王位継承の争いが続いており、トリフォンとデメトリオス2世が争っていた。デメトリオス2世がシリアでの戦いで敗れメソポタミアに移動すると、パルティア支配を嫌うギリシア人の諸ポリスはデメトリオス2世を解放者として迎え入れ紀元前140年に大規模な反乱を起こした。この反乱にはエリマイス王国、ペルシス王国も加わり、また東方ではグレコ・バクトリアもこの動きに同調してパルティアを攻撃した。
パルティア軍は当初バビロニアから撤退を余儀なくされたが、間もなくデメトリオス2世を破ってこれを捕虜とし、翌年には反乱は鎮圧された。デメトリオス2世は彼を破った将軍達によって市中を引き回された後で東方にいたミトラダテス1世下へ送られた。ミトラダテス1世はデメトリオス2世と自分の娘ロドグネを結婚させた。こうしてバビロニアとメディア、そしてイラン高原に対するパルティアの支配が確固たるものとなったが、しかしバビロニアやエリマイスの征服によって、膨大なギリシア人人口を抱えることとなったパルティアは、これ以後ギリシア人の文化的・経済的影響力の大きさと、その反パルティア、親セレウコス朝、親ローマという政治的傾向に長期に渡って悩まされることとなる。
ミトラダテス1世は紀元前138年に死去し、王妃リインヌとの間の息子フラーテス2世が王位を継いだが、彼はまだ幼くリインヌが摂政(共同統治者)となった。