プラハ条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
プラハ条約とは、三十年戦争において、神聖ローマ皇帝が、1635年5月30日にボヘミアのプラハで結んだ和平条約である。皇帝と、プロテスタント連合軍(ハイルブロン同盟)を率いてきたザクセン公との和解であった。
この条約に至るまで、皇帝軍には紆余曲折があった。ボヘミアの反乱からデンマーク戦争において優位に立ちながら、グスタフ・アドルフの侵攻によって一気に窮地に立たされたのである。皇帝フェルディナント2世は、やむなくヴァレンシュタインを復帰させる。ヴァレンシュタインは、1632年のリュッツェンの戦いにおいて、グスタフ・アドルフを戦死させながらも敗走し、2年後の1634年に暗殺された。この年、プロテスタント諸侯とスウェーデンの間でハイルブロン同盟が結ばれている。
しかし皇帝軍は、この年、三十年戦争最大の大勝利を手にする。ネルトリンゲンの戦いにおいてスウェーデン・プロテスタント諸侯軍を壊滅させたのである。皇帝は一時的ではあるが、三十年戦争の主導権を握ったのである。プロテスタント諸侯軍は、一気に窮地に陥った。何よりもザクセン公のスウェーデンとの決別が決定づけた。皇帝は、この期を逃さなかった。1年掛かりでザクセン公を抱き込み、1635年の5月30日のプラハ条約にこぎ着けるのである。ただし皇帝は1629年に発布したプロテスタントの権利を圧迫する「復旧令」を取り下げての和解であった。これは、プロテスタント諸侯も、カトリック諸侯と等しく、所領と諸処の権利を有する事を認めるものであった。これは束の間であったが、皇帝フェルディナント2世の勝利を表すものであった。
プラハ条約は、ドイツの各諸侯の署名による施行であった為、カトリック諸侯側の主力であったバイエルン大公は、自軍の権力の放棄を認めず署名を拒否した。皇帝はやむを得ず、バイエルン大公家に大幅な権力を譲歩して署名に合意させた。バイエルン大公の署名は、新旧問わず、ドイツ諸侯の相次ぐ署名へと導いた。条約の署名に頑として拒否したのは、スウェーデンを除けば、ヘッセン=カッセル伯とブラウンシュヴァイク=リューネブルク侯と、プファルツ侯フリードリヒ(1632年に死んだ元ボヘミア王プファルツ選帝侯フリードリヒ5世の子)だけである。しかしこれは、ドイツ内でしか効果はなかった。他方で、スペイン、オランダが死闘を繰り広げていた(80年戦争)。
1636年には、レーゲンスブルク選帝侯会議で皇帝フェルディナント2世に子フェルディナント(後のフェルディナント3世)がローマ王に選出された。ハプスブルク家の権威は絶頂であるかの様であった。帝国の統一者として、絶対主義すら標榜可能な未来が開けているかの様であった。
しかし戦争は終結しなかった。皇帝フェルディナント2世の示した和平は、結局、ドイツ国内だけのものであった。署名には、ハプスブルク家一族のスペインは参加していなかった。スウェーデンは、この条約によって窮地に追い詰められた。帝国諸侯のほとんどが裏切ったため、スウェーデン軍は、ポンメルンに押し込められた。しかし、スウェーデンの驚異的な粘り腰の戦略は、ここから始まったのである。スウェーデン宰相オクセンシェルナは、フランス王国と同盟を結び、さらにオランダとも結びついた。フランス宰相リシュリューはここへ至り、直接介入の意志を露わにするのである。そしてザクセン公もハイルブロン同盟の指揮官に戻り、条約は破綻した。
結局この条約は、皇帝フェルディナント2世が死の直前に見た幻想に過ぎなかった。フランス参戦は、三十年戦争の泥沼と化し、一層ドイツの荒廃を招来させたのである。