ベーラ3世
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ベーラ3世(1148年-1196年4月24日、在位1172年-1196年)は、ハンガリー王国アールパード王朝の国王。ゲーザ2世の次男。
即位前は人質として東ローマ帝国の皇帝・マヌエル1世コムネノスのもとで過ごした。マヌエル1世は40歳を過ぎても男児に恵まれなかったため、聡明なベーラ3世を娘婿に迎えてマヌエルの祖父の名である「アレクシオス」という名とデスポテース(専制侯。当時は皇帝に次ぐ地位)の爵位を与え、帝位継承者として遇したが、1169年にマヌエル1世に男児が誕生したこと(のちの東ローマ皇帝・アレクシオス2世コムネノス)、1172年に兄でハンガリー王であったイシュトヴァーン3世が嗣子無くして死去したこともあって、ベーラ3世は帰国し、ハンガリー王として即位することとなったのである。
即位後は貴族らの内紛を鎮め、1180年からは積極的な対外進出を行なうようになる。そして、ボスニアやセルビア、クロアチア、ダルマチア、ヴェネツィア共和国からのザラ市奪取など、その戦果には目覚ましいものがある。
ベーラ3世の時代に、ハンガリー王国は全盛期を迎えたのである。しかしベーラ3世の死後、長男のイムレ1世と次男のエンドレ2世(アンドラーシュ2世)との間で王位継承争いが起こった結果、王国は混乱し、衰退することとなったのである。
[編集] 結婚
マリア・コムネナ(マヌエル1世コムネノスの皇女) 1163年婚約、1169年破棄。
アニェス・ド・シャティヨン(アンティオキア女公コンスタンスとルノー・ド・シャティヨンの娘) 1172年結婚、6子をもうけた。
- イムレ1世(1174-1204)
- マルギト (1175-1223) イサキオス2世アンゲロスの皇后。のちモンフェラート侯ボニファッチョと結婚
- エンドレ2世
- サラモン(夭折)
- イシュトヴァーン(夭折)
- コンスタンチャ(1180-1240) ボヘミア王オタカル1世妃
マルグリット・ド・フランス(フランス王ルイ7世の三女。イングランド王太子若ヘンリーの先妻) 1186年結婚。子供はいなかった
ハンガリー王国アールパード王朝 | ||
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