ハンガリー王国
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ハンガリー王国(-おうこく)は1000年ころから、1918年まで現在のハンガリー共和国を中心とした地域にあった王国。ただし1918年以降も1946年に共和政体になるまでは「ハンガリー王国」を国名とした。
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[編集] 地理
現在のハンガリーとは異なる。
現在のハンガリー共和国領全域に加え
がハンガリー王国の最大領域であった。 詳しくは「ハンガリー王国の歴史的地域」に譲る。
[編集] 首都
- ペシュト Pest (-1361年)
- ブダ Buda (1361年-1541年)
- ポジョニ(ブラティスラヴァ) Pozsony (1541年-1784年)
- ブダ (1784年-1873年)
- ブダペシュト Budapest (1873年-)
1541年から1784年まで現スロヴァキアの首都であるプラティスラヴァが首都になったのはバルカン半島に侵入してきたオスマン帝国の圧力から逃れるためである。
[編集] 歴史
- 1000年ころ イシュトヴァーン1世がローマ教皇より戴冠されハンガリー王国が成立する。同時期マジャル人がカトリックを受容し始める。
- 10世紀前半、モラヴィアの大モラヴィア王国を征服。
- 12世紀から13世紀 ハンガリー王国の領域が最大となりスロバキア、クロアチア、スラヴォニア、ヴォイヴォディナ、トランシルヴァニアを領域化する。
- 13世紀中ごろ モンゴル帝国の襲来を受ける。また異民族クマン族も流入した。
- 1308年、選挙王政移行。外国貴族による王朝の時代。
- 1396年 オスマン帝国とのニコポリスの戦い。ジギスムント敗走。
- 1444年、オスマン帝国とのヴァルナの戦い。ヴァルナ十字軍敗れ、1452年までハンガリー王位が空位となる。
- 1446年-1452年、ハンガリー王国摂政、フニャディ・ヤーノシュによるハンガリー復興。
- 1458年、フニャディによってオスマン帝国撃退。
- 1479年 ハンガリー王マーチャーシュ・コルヴィヌスがオーストリア(オーストリア大公)を支配する。
- 1485年 マーチャーシュ・コルヴィヌス、ウィーンを占領(-1490年)。
- 1526年 オスマンとのモハッチの戦いでラヨシュ2世戦死。
- ハンガリー王国は領土の大部分をオスマンに奪われる。
- 以降ハンガリー王冠はハプスブルク家によって所有される。
- 1623年 ハプスブルク家によるハンガリー王位の世襲権を認める。
- 1683年 第二次ウィーン包囲。ポーランドの支援を受けて撃退。オスマンへの反撃を開始する。
- 1699年 カルロヴィッツ条約においてハンガリー、トランシルヴァニアのすべてを回復する。
- 1740年、マリア・テレジアによるハンガリー王戴冠(オーストリア継承戦争)。
- 1761年 クロアチア、スラヴォニア、ヴォイヴォディナも回復。
- 1804年、オーストリア帝国成立。
- 1848年 1848年革命起こる。ハンガリーで蜂起。ハンガリー独立宣言(-1849年)
- 1867年 オーストリア・ハンガリー二重帝国成立(アウスグライヒ)。
- 1918年 第一次世界大戦において敗戦国とされる。
- 1920年 トリアノン条約によって広大な領土を失う。
- チェコスロバキア、ルーマニア軍が侵入。
- クロアチア、スラヴォニア、ヴォイヴォディナをセルビア・クロアチア・スロベニア王国が、北部ハンガリー(スロバキア)をチェコスロバキアが、トランシルヴァニアをルーマニア王国が奪取する。
[編集] 歴代国王
詳しくは「ハンガリー国王一覧」を参照の事。
1526年以降はハプスブルク家の神聖ローマ皇帝が、1804年からはオーストリア皇帝がハンガリー王位を継承した。ただし例外が2人いる。1人はローマ王フェルディナント4世で、父フェルディナント3世の生前にハンガリー王位を譲られ、次期皇帝としてローマ王にもなっていたが、帝位を継承する前に死去した。このように、ハンガリー王位は帝位継承に先立って譲位されることが多かった。もう1人はマリア・テレジアで、彼女は神聖ローマ皇帝ではなかったが、ハンガリー女王の他にもボヘミア女王やオーストリア大公に即位した。逆にいえば彼女の夫のフランツ1世は神聖ローマ皇帝ではあったが、オーストリア大公、ハンガリー王等に即位しなかった事になる。これは、マリア・テレジアがハプスブルク家の唯一の後継者でありながら、男子でなかったためサリカ法典により神聖ローマ皇帝になれなかったことで生じた(オーストリア継承戦争を参照)。
[編集] 1918年から1948年までのハンガリー王国
前述したように1948年までハンガリーはハンガリー王国を国名とし続けた。ただしこの「ハンガリー王国」にはハンガリー王が存在しなかった。ホルティ・ミクローシュが摂政となって、適当な人物を付けようとしたのだが(フランツ・ヨーゼフ1世の皇后エリーザベトの縁者を考えていたようである)、結局誰も王位につかないまま第二次世界大戦が始まり、戦後になって共産主義国家となった。
この期間、オーストリア最後の皇帝にして同時にハンガリー最後の王カール1世もハンガリー王としての復位を狙っていたようだが、これも実現しなかった。
なお、現在でもカール1世の長子でハプスブルク家当主のオットー・フォン・ハプスブルクはハンガリー王を自称している。
[編集] ハンガリー王国の残した問題
ハンガリー王国はその広大な領域に数多くのマジャル人を残した。現在でも、スロバキア、クロアチア、セルビア・モンテネグロ、ルーマニアには数多くのマジャル人が住んでおり、ハンガリーとこれらの国の外交問題の一つとなっている。
例としてヴォイヴォディナにおいては1941年のユーゴスラビア侵攻の理由の一つとなった。又1989年に起こったルーマニア革命も発端はルーマニアのマジャル人問題であった。