ポルタヴァの戦い
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ポルタヴァの戦い | |
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![]() ポルタヴァの戦い(Denis Martens the Younger) |
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戦争: 大北方戦争 | |
年月日: 1709年6月28日(新暦7月8日) | |
場所: ポルタヴァ、東ウクライナ | |
結果: ロシアの勝利 | |
交戦勢力 | |
スウェーデン王国 | ロシア帝国 |
指揮官 | |
カール・グスタフ・レーンスケルド カール12世 (直接指揮せず) |
ピョートル1世 |
戦力 | |
攻撃軍 17,000 包囲軍 8,000 |
兵力 42,000-45,000 砲 72 |
損害 | |
死傷 6,900 捕虜 28,00 |
死亡 1,345 負傷 3,200 |
ポルタヴァの戦い(瑞:Slaget vid Poltava、露:Полтавская битва)は、1709年6月28日(新暦7月8日)、東ウクライナのポルタヴァで行われたロシア帝国とスウェーデン王国の大北方戦争における最大の戦い。カール・グスタフ・レーンスケルド率いるスウェーデン軍と、ピョートル1世率いるロシア軍が交戦し、ロシア軍が勝利した。
この戦闘の後、スウェーデンは軍事的優位を喪失した。大戦争の行方を決した会戦といえるだろう。なお、カール12世は負傷のために直接指揮を執っておらず、これが敗因の一つになったとされる。また、スウェーデン軍にはコサックのイヴァーン・マゼーパも参加していた。
目次 |
[編集] 背景
1700年、ロシアとその同盟国のスウェーデン攻撃によって大北方戦争が開始された。ピョートル1世はみずから40,000人の軍を率いてスウェーデン領に侵入し、ナルヴァ要塞を包囲した。これに対しスウェーデン王カール12世は、ロシア軍の半分に満たない軍勢で解囲に向かい、ナルヴァの戦いでロシア軍を破った。大損害を出したロシアはスウェーデンから撤退することを余儀なくされた。その後、カール12世はロシアの同盟国であるポーランドへ侵攻、1706年に和平条約を結び、ポーランドを同盟から離脱させることに成功した。デンマークを撃退し、ポーランドも傀儡国家にしたカール12世の残る強敵は、ロシアただ一国であった。
この間にピョートル1世は失った戦力の回復に努め、軍の近代化を図ると共に、徴兵制も導入した。その成果が表れ出した1708年、スウェーデンは、ロシア本土へと侵攻するのである。ロシアは、万全な体勢を取り、さらに焦土作戦を展開した。おりしも冬将軍がロシアを後押しした。スウェーデンは、補給を絶たれた上に、大寒波によって多数の凍死者を出す損害を被っていた。
それでもカール12世は進軍を止めなかった。1709年6月、スウェーデン軍は、ヴォルスクラ川沿いの要衝ポルタヴァを包囲した。包囲戦の最中の6月17日、カール12世は狙撃兵によって足を負傷し、カール・グスタフ・レーンスケルドに指揮権を委託した。その後まもなくピョートル1世率いる42,000から45,000人前後の兵力と72門の砲を装備したロシアの援軍が到着、スウェーデン軍を逆に包囲した。圧倒的な兵力の劣勢から、カール12世は敵包囲軍を撃破して、北方へ突破することを決意した。この時点で、スウェーデン軍は著しい凍死者によって20,000人余りに減少しており、さらにポルタヴァから出撃するロシア軍を牽制するために軍の一部を割かねばならず、攻撃に使用できる兵力はわずか17,000人ほどだった。
[編集] 戦闘経過
6月28日、スウェーデン軍の攻撃は奇襲効果を狙って未明から開始された。奇襲は成功し、戦闘序盤はスウェーデン軍優位に進んだ。ロシア軍左翼、および中央はスウェーデン軍の勢いに押されて後退しはじめた。ピョートル1世は騎兵を投入して時間を稼ぎ、その間に全軍が後退して、野営地の前に築いた野戦陣地へと入った。
夜明けになり、態勢を整えたスウェーデン軍はロシア軍陣地へと攻撃をかけた。アダム・ルードヴィゴ・レーヴェンハウプト元帥が指揮するスウェーデン軍中央がロシア軍中央に攻め寄せたが、この攻勢はすぐに頓挫した。カール12世が直接指揮を執っていなかったため、スウェーデン軍の統率は完全ではなく、各部隊の連携がうまくいかなかったのである。致命的な損失を招いたのは、カール・グスタフ・ルース大将率いる2,600人の歩兵部隊が、ロシア軍の稜堡に仕掛けた突撃である。ルースと指揮下の部隊は塹壕にはまりこんだ状態で猛烈な砲撃を浴び、1,000人以上の損害を出して降伏した。これによってスウェーデン軍の戦線に大きな穴が開いた。
ここにおいてピョートル1世は反撃を命令した。ロシア歩兵は陣地から出撃し、スウェーデン歩兵へ攻撃を仕掛けた。さらに両翼のロシア騎兵も突撃を開始した。最初に崩れたのはスウェーデン軍右翼の騎兵であった。さらにまもなくスウェーデン軍左翼の騎兵も敗走。ロシア騎兵は両翼からスウェーデン歩兵の側面を圧迫した。カール12世は敗勢を悟り、全軍に撤退を命令した。スウェーデン軍は野営地へ向けて敗走し、ロシア騎兵の追撃によって多くの死傷者を出した。ポルタヴァの包囲軍と合流したスウェーデン軍は、野営地を放棄して南へ敗走した。ロシア軍は執拗に追跡し、多数の捕虜を得た。
[編集] 結果と影響
カール12世とマゼッパは、敗残兵に紛れて南へ逃れ、ついにはオスマン帝国へと逃れた。直接の戦闘と一連の追撃によって生じたスウェーデン軍の損失は甚大なものであった。戦死者5,000人以上、生き残った15,000人と援軍6,000人は降伏し、シベリアへと送られた。生きてスウェーデンに帰国できた者はわずかに5,000人であったと言う。
この戦闘は、大北方戦争におけるターニングポイントとなった。この戦いの後、デンマークが戦線に復帰し、ポーランドでは、廃位されたアウグスト2世が復位するのである。そしてバルト地方は、1年足らずでロシアに帰した。戦争はこの後も継続したが、最早、スウェーデン優位に戻る事はなかった。この戦いは、スウェーデンにおける終わりの始まりを意味した。
[編集] 日付について
当時、スウェーデン、ロシアは共にユリウス暦(旧暦)を使用していた。スウェーデンがグレゴリオ暦(新暦)を導入するのは1753年、ロシアは10月革命後の1918年である。そのため、本稿ではユリウス暦で統一した。
[編集] 参考書籍
- 百瀬宏・編『北欧史』山川出版社
- 武田龍夫・著『物語 スウェーデン史』新評論