ポール・イリンスキー
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ポール・R・イリンスキー(Paul R. Ilyinsky、1928年1月27日 - 2004年2月10日)は、ロシアの皇族ドミトリー大公とオードリー・エメリー(Audrey Emery)の子。父ドミトリー大公はパーヴェル大公の長男で、最後の皇帝ニコライ2世とは従兄弟同士である。イリンスキーは、アレクサンドル2世の曾孫にあたる。
[編集] 父ドミトリー大公
1916年、ドミトリー大公はグリゴリー・ラスプーチンを暗殺した。ラスプーチンを盲信していた皇后アレクサンドラの怒りを買ったドミトリー大公は、ペルシャ戦線に送られた。しかし前線への左遷は、結果的にドミトリー大公の生命をボリシェヴィキから救うこととなる。ロマノフ家の皇族の大部分は、ボリシェヴィキによって処刑された。
辛くも亡命に成功したドミトリー大公であったが、生活は決して豊かではなかった。しかし、1927年アメリカ人でシンシナティに豊かな財産を持つオードリー・エメリー夫人と結婚した。結婚に当たり、オードリーは東方正教会に改宗した。
[編集] 生い立ち
1928年1月27日、ポールはロンドンのアメリカ大使館で生まれた。ドミトリー大公の従兄弟でロシアの皇位要求者キリル・ウラジーミロヴィチ大公(w:Grand Duke Cyril Vladimirovich of Russia, アレクサンドル2世の皇子ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公(w:Grand Duke Vladimir Alexandrovich of Russia)の子)により、新たにオードリーとポールには、ドミトリー大公のかつての所領イリインスコエに由来するイリンスキー姓を与えられた。
本来、ロマノフ家からすれば、ドミトリー大公とオードリーは貴賤結婚であったが、キリル大公はポールの誕生を記念し、母子にクニャージ(knyaz、大公)の身分に相当する措置を採り祝福を与えた。しかし、その後ドミトリー大公夫妻の間には亀裂が生じ、1938年に離婚した。イリンスキーは母に引き取られ、母とともにフランスで過ごした。ドミトリー大公は健康を害し、1930年代には慢性結核にかかり、1942年、イリンスキーが13歳の時に逝去した。1939年、オードリーはグルジアの貴族ドミトリー・ゲオルガゼ(ジョルジャーゼ)公爵と再婚した。
[編集] アメリカ市民権取得後
イリンスキーはアメリカ市民権を取得し、ヴァージニア州のウッドベリー・フォレスト校、イギリスのサンドハースト王立陸軍士官学校を経て、アメリカ海兵隊に入隊した。朝鮮戦争では優秀な戦場カメラマンとして活躍し、大佐で退役した。その後1953年にヴァージニア大学を卒業した。
イリンスキーは20年間、シンシナティで暮らし、その間エメリィ・インダストリー社の取締役を務めた他、カメラマンとしても活躍した。1980年フロリダ州パームビーチ(w:Palm Beach, Florida)に移った。パームビーチ市議会議員を10年務めた後、同市市長を3年務めた。1999年、健康を理由に市長を辞任した。イリンスキーは、パームビーチ郡のボーイスカウトに対する顕著な貢献が認められ、パームビーチ初の優秀市民(Distinguished Citizen)号を贈られた。また、シンシナティにおける活動も顕彰され、ボーイスカウトで最も名誉とされるシルバー・ビーバー賞を授与されている。
1991年、ソビエト連邦が崩壊すると、サンクトペテルブルク市から代表団がイリンスキーの下を訪問した。この代表団は、当時パームビーチ市議会議員であったイリンスキーに対して、ロシアに帰国し帝位継承権を主張するように求めた。しかし、イリンスキーは彼らに対して、この要請を丁重に固辞している。
2004年2月10日、パームビーチの自宅で死去した。75歳。
イリンスキーは、2度目の妻アンジェリカ・カウフマンとの間にドミトリー、マイケル、ジョージ・ロック(養子)、ポーラ、アンの5人の子と9人の孫を儲けた。
イリンスキーの生活スタイルは亡命貴族のそれであり、イリンスキーと母オードリーは宏壮な邸宅を営み、まさにやんごとなき皇族と言えるものであった。また、婚姻関係により、シュレースヴィヒ公国とホルシュタイン=ゴットルプ家の継承権を有し、ノルウェー王、オルデンブルク伯などの継承権を要求することもできた。1992年ウラジーミル・キリロヴィチ大公の逝去にともない、ホルシュタイン=ゴットルプ家との関係からスウェーデンの王位継承権も主張できる立場にあった。