マダガスカルの戦い
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マダガスカルの戦いとは第二次世界大戦中のフランス植民地マダガスカル島で1942年5月5日、ヴィシー政権側についたフランス軍(ヴィシー・フランス軍)および大日本帝国海軍と上陸した連合軍がインド洋のシーレーンを目的とした戦い、11月6日まで続いた。
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[編集] 背景
1940年代のマダガスカル島はフランスの植民地で、第二次世界大戦が始まると貿易量が激減してマダガスカル経済は深刻な危機状況となった。フランス本国がドイツの侵攻で占領されると、フランスはドイツに休戦を提案し、ヴィシー政府が誕生した。当時のマダガスカル総督はヴィシー政府の支持を表明した。
このころ地中海の戦況は枢軸国側有利であり中東、インド方面の連合国側船団は地中海-スエズ運河ルートではなく喜望峰-インド洋のルートへ迂回していた。マダガスカル島はこの迂回ルートの途上に位置しておりマダガスカル島の港や飛行場が日本軍に占拠されると中東及びインド方面との補給路が絶たれる恐れがあった。日本軍は1942年3月の末までに東南アジア(蘭印)、英植民地ビルマ南部まで攻略を行い、さらに西進を行うことが可能であった。日本海軍の潜水艦はインド洋で制約を受けずに活動でき、3月には機動部隊がセイロン島攻撃を行った。そのため、イギリス海軍東洋艦隊はモルディブ諸島のアッズ環礁に退避させたが、空母を失って英植民地ケニアのキリンディニまで撤退した。
この撤退により、イギリス海軍は日本軍がマダガスカルを前進基地として使用する可能性に対処しなければならなくなった。日本軍がヴィシー政府と協力してマダガスカル島の基地を使用できるようになれば、日本軍の航空機がマダガスカル島に配備され、連合軍の商船のみならずマレー沖海戦で戦艦を撃沈されたイギリス海軍の艦隊にとっても脅威となることが予想された。
当時、日本海軍の潜水艦は各国の潜水艦の中で最長の航続距離を持っており、16000㎞以上もある潜水艦もあった。もし、それらがマダガスカル島の基地を使用できたら連合国の太平洋、オーストラリアから中東、南大西洋の範囲に広がる海上交通網に影響することになるのであり、それまで影響の少なかったため守りが手薄であった西インド洋、南大西洋が日本海軍の攻撃にさらされることも予想された。
[編集] アイアンクラッド作戦
連合国はマダガスカル島への上陸作戦(アイアンクラッド作戦、Operation Ironclad)の実行を決めた。イギリス陸軍、イギリス海軍を中心とする連合軍部隊の指揮はロバート・スタージェス少将が取り、空母イラストリアス、インドミタブル、戦艦ラミリーズを基幹とする艦隊が上陸作戦の援護を行うこととなった。
[編集] 経過
南アフリカ空軍により何度も偵察が行われた後、英第5歩兵師団第17歩兵旅団、第13歩兵旅団、英第29歩兵旅団、5つの奇襲部隊、英国海兵隊は1942年5月5日、ディエゴ・スアレス西のクーリエ(Courrier)湾およびAmbararata湾へ上陸した。マダガスカル島の東海岸で陽動攻撃も行なわれた。上陸に空母艦載機や少数の南アフリカ空軍の航空機が援護した。
アルマン・レオン・アネット(Armand Leon Annet)総督率いるヴィシー・フランス軍は約8000名で、うち約6000名はマダガスカル人で残りは大部分がセネガル人であった。1500から3000名がディエゴ・スアレス周辺に集中していた。なお、海軍と航空戦力は沿岸砲台8門、仮装巡洋艦2隻、スループ2隻、潜水艦5隻、MS406戦闘機17機、ポテ63爆撃機10機と少なかった。
上陸した連合軍の大規模な攻撃後、ディエゴ・スアレスは5月7日に降伏したが、ヴィシー・フランス軍の主力は南へ後退した。
ヴィシー・フランス軍は予想以上に抵抗し、両軍に増援が送られた。枢軸国側は、日本海軍の潜水艦伊10、伊16および伊20が5月29日に到着した。また、伊10の偵察機がディエゴ・スアレス港に戦艦ラミリーズを発見した。この偵察機に発見されたことにより、ラミリーズは停泊地を変更した。しかし、同日中に伊20および伊16は2隻の特殊潜航艇を発進させた。特殊潜航艇は港内に侵入し戦艦ラミリーズを大破させ、タンカー1隻を撃沈した。
交戦は数ヶ月間低レベルの状態で続いた。英第5師団はインドへ移された。また、6月に第22東アフリカ旅団が到着し、その翌週、第7南アフリカ連邦自動車化歩兵旅団と第27ローデシア歩兵旅団が上陸した。
第29旅団および第22旅団は9月10日、雨季に先立つ連合軍の再攻撃のためマジャンガに上陸した。直接攻撃はほとんどなかったが、連合軍はヴィシー・フランス軍によって主要道路に設置された多くの障害物に遭遇した。連合国は、最終的にほとんど抵抗を受けずに首都タナナリブおよびアンバラバウ(Ambalavao)の町を占領した。最後の大きな戦闘は10月18日にAndriamanalinaで行われた。アネット総督は11月5日にフィアナランツォア(Fianarantsos)の南、Ilhosy近くで降伏した。これにより、連合軍の全島占領が完了した。
ディエゴ・スアレスの上陸で連合軍は約500人の死傷者を出し、9月10日以降の作戦では30人が戦死、90人が負傷した。