マルレ
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マルレとは、日本陸軍の海上挺身戦隊が用いた特殊艇。〇の中に「レ」か「れ」を書いて「マルレ」と呼称されたが、これは本艇の秘匿呼称で連絡艇の略称である。正式名称は四式肉薄攻撃艇と呼称され、「マルニ」(〇の中に「ニ」か「に」と表記)の略称でも呼ばれた。
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[編集] 概要
全長5.6m、全幅1.8m、喫水0.26m、満載排水量約1.5トン、自動車用の70~80馬力程度のエンジンを搭載したモーターボートで、艇体後部に250kg爆雷を装着していた。最高速力は23~25ノット、航続時間は3.5時間。装甲はなくベニヤ製であった。甲一型、甲三型、甲四型のサブタイプがあり、約3000隻が建造された。緑色の迷彩塗装を施したために、隊員たちは「アマガエル」と呼んでいた。
[編集] 開発の経緯
陸軍のマルレ艇に関しては海軍の震洋と違い元々特攻艇として開発されたものではなかった。計画当初は水際防衛を海軍に任せるのではなく陸軍自らの手で行うという発想のもとに敵上陸船団に対し側背から大量の舟艇による奇襲によって攻撃をかけるという着想の元に開発された兵器である。この考えは陸軍船舶司令部、大本営陸軍部、現場士官からの意見具申がほぼ同時に行われたと見られ、1944年4月頃陸軍第十技術研究所に大本営より自動車エンジンを使用した肉薄攻撃艇の試作命令が出た。これに伴い、第十技術研究所では主務科長:内山鉄夫中佐、小滝真吉技師、岩崎中尉らを中心に設計を開始した。試作艇の完成期日は定かではないが、同年7月11日に千葉県岩井付近において海軍の震洋と比較試験を行い、採用が決定している。これが甲一号型である。
特攻艇として認識されているマルレではあるが、震洋との大きな違いは最初から特攻艇として開発されたものではないということである。従って震洋は艇内に爆薬を搭載しているのに対し、マルレは艇尾に250kg爆雷を懸架する形式になっており、正式名称が示す通り大挙して高速で敵船団に奇襲をかけ肉薄し敵船至近に爆雷を投下して離脱するという構想の元に開発されたものである。しかし、戦局が押し迫る中でこの攻撃艇を体当たり特攻艇として使用したほうが至近に爆雷投下して離脱し反復攻撃をかけるより戦果は確実に上がり、また技量もそれほど要らないということで体当たり作戦が採択されている。
1944年7月サイパン島陥落の時期に、陸軍は特攻兵器を開発・準備していた。大本営陸軍部戦争指導班『機密戦争日誌』の1944年7月11日に,マルレ試作完成に関する次の記述がある。
「突撃艇ノ試験演習ヲ隅田川デ実施、自重1屯〔㌧〕、自動機関ヲ利用、速力20節(ノット)、兵装ハ爆雷2箇(1箇100瓩〔㌔〕)航続時間五時間、右突撃艇ハ泊地ノ敵輸送船ニ対スル肉薄攻撃用トシテ先月十五日(サイパン上陸ノ日)設計ヲ開始シ七月八日試作ヲ完了セルモノナリ、速力及兵装ノ点ニ於テ稍々不十分ナルモ、今後ハ斯カル着想ノ下ニ、此種兵器を大量整備スルヲ要ス」[1]
サイパン島陥落によって、日本陸海軍の双方で、正攻法では、米軍に太刀打ちできないことを認識し、特攻隊を編成し、特攻を正規の作戦として採用した。1943年に誕生した船舶特別幹部候補生たちが、マルレの搭乗員に選ばれた。全軍特攻化の中で、若い将兵たちは、思い悩みながら、貧弱なマルレ配備の特攻隊員となり、義務を果たそうとした。しかし、「特攻隊自然発生説」、すなわち、特攻隊は現地の将兵たちの犠牲的精神の発露として自然に発生したという説は、陸軍の突撃艇マルレの開発・生産、部隊編成をみただけでも、虚構であることが明らかであろう。軍による特攻作戦の採用の決定、積極的な関与があってはじめて、マルレのような特攻兵器の生産、特攻隊の編成が可能になったといえる。
[編集] 実戦運用
マルレは、1945年、フィリピンルソン島リンガンエン湾での戦い、沖縄戦に実戦投入された。特に、渡嘉敷島など慶良間列島に配備された部隊が有名である。また、本土決戦に備えて、日本の太平洋岸の多くの海岸には、米軍上陸部隊・支援部隊を迎え撃つために、マルレの秘密基地が作られた。例えば、現在の千葉県外房海岸にも洞窟陣地が残っている。陣地構築には、いわゆる朝鮮人労働者も動員された。
日本陸軍はマルレを装備した海上挺身隊を、学徒兵、船舶や航空関連の特別幹部候補生など少年兵出身者を中心に編成した。つまり、軍の作戦の一環として、特攻隊を編成したのであり、1945年2月には,最高戦争指導会議で、全軍特攻化の方針を決定している。
攻撃方法は敵の上陸海面を前もって予想して近くに洞窟などを利用した秘匿基地を作り、敵船団が近くに来ると夜間に数十隻からなる攻撃隊で一斉に攻撃を仕掛け、体当たりもしくは至近への爆雷投下で敵軽艦艇もしくは輸送船を撃破するというものであった。しかし震洋と同じく航続距離が短い為に各地に配備するには海上輸送に頼らなければならなかったが、その途中で連合軍の通商破壊作戦により海没したものも多く、初期に編成された海上挺身隊(マルレ艇の攻撃部隊)全30個戦隊[2]のうち輸送途中に遭難したものが16個戦隊にも及び、第19戦隊に至っては生存者僅か7名という大損害を蒙った。結局終戦までに輸送中の損害で挺身隊員だけで戦死者317名、マルレの損害1300隻という甚大な被害を蒙っている。これを受けて本土決戦用として更に十数個の戦隊を新規編成する羽目になった。この他に基地を管理する基地大隊や整備中隊も編成されそれぞれ配備されたがこちらも輸送途中の被害が多く、基地大隊約900名のうち輸送中の損害により配備前に消滅してしまった大隊や、基地大隊も戦隊も無事配備されたものの整備中隊が輸送中に全滅してしまった隊等もあった。
戦果としては、沖縄戦で第26戦隊が駆逐艦1(チャールズ・A・バッジャー)を撃沈他3隻撃破の戦果を挙げた他、第28戦隊が駆逐艦1(ハッチンズ)を撃破、ロケット砲艦1撃破の戦果を挙げている。しかし、一度攻撃した後は米軍の警戒が厳しくなる上徹底的な掃討作戦が行われたために再攻撃が出来ない場合が多く、攻撃後の部隊は基地が攻撃され艇が破損したり、再出撃の機会を待っているうちに陸戦に巻き込まれ基地ごと全滅してしまうことが多かった。しかし海上挺身隊は軍司令官の直轄部隊として配備された[3]ので、出撃命令や戦果、報告もしっかり残っている場合が多い。
[編集] 注記
- ^ 保阪正康『「特攻」と日本人』(講談社現代新書、2005年) ISBN 4061497979 p167~p168より引用。
- ^ 一個戦隊は戦隊長以下隊員100名余、マルレ100隻の編成。
- ^ 挺身攻撃は統一運用による奇襲という性格上投入時期が難しく、軍司令官の直接指揮を受ける必要があった。
[編集] 外部リンク
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