サイパンの戦い
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サイパンの戦い | |
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海岸に向かうLVTと砲撃を行う軽巡洋艦バーミングハム、重巡洋艦インディアナポリス。(1944年6月15日) |
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戦争: 太平洋戦争 | |
年月日: 1944年6月15日から7月9日 | |
場所: マリアナ諸島、サイパン | |
結果: アメリカの勝利 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 | アメリカ |
指揮官 | |
斎藤義次中将 | リッチモンド・ターナー中将、ホランド・スミス中将 |
戦力 | |
31,000 | 71,000 |
損害 | |
戦死21,000、自決8,000、捕虜921 | 戦死3,500、戦傷13,160 |
サイパンの戦い(—のたたかい、Battle of Saipan)とは太平洋戦争中、1944年6月15日から7月9日に行われたアメリカ軍と日本軍のマリアナ諸島サイパン島における戦い。ホランド・スミス中将指揮のアメリカ軍第2海兵師団、第4海兵師団、第27歩兵師団が斎藤義次中将が指揮する日本軍第43師団を破り、サイパン島を占領した。
[編集] 背景
1943年から1944年前半にかけて連合軍はソロモン諸島、ギルバート諸島、マーシャル諸島、ニューギニア島のパプア半島を攻略し、カロリン諸島、パラオ諸島、マリアナ諸島へ迫った。
マリアナ諸島がアメリカ軍の攻略目標に選ばれたのは新型爆撃機B-29が完成したことによる。もし、マリアナ諸島が連合軍の手に落ちれば東京など日本本土が攻撃圏内に入るからである。日本海軍はアメリカ軍の攻撃を予想し迎撃作戦(あ号作戦)を立案した。
日本陸軍は中部太平洋の戦況緊迫に伴い昭和19年2月25日に第31軍を編成した。第31軍は司令部をサイパン島に置き、聯合艦隊司令長官の指揮下に入った。これはマリアナ方面の防備が海軍担当であったためであり、第31軍は中部太平洋方面艦隊司令部の指揮を受けることになった。(しかし、実際には陸海軍部隊はそれぞれの司令部の指揮にのみによって戦うという状況であった。)軍司令官には小畑英良中将が親補され、参謀長には井桁敬治少将が任命された。
軍司令部の所在するサイパン島には第43師団(師団長:斎藤義次中将、陸士第24期)及び独立混成第47旅団(旅団長:岡芳郎大佐、陸士第25期))ほかが派遣された。しかし、第43師団の輸送は、アメリカ潜水艦の攻撃によって難航し、兵員の揚陸は成功したものの、重火器は不足状態だった。また、師団主力の到着は米軍の上陸のわずか20日前であり、簡単な塹壕を築く程度の時間的余裕しかなかった。
他方、日本海軍は、中部太平洋方面艦隊司令長官:南雲忠一中将(海兵第36期)、第6艦隊司令長官:高木武雄中将(海兵第39期)、第1連合通信隊司令官:伊藤安之進少将(海兵第42期)、第3水雷戦隊司令官:中川浩少将(海兵第42期)、南東方面航空廠長:佐藤源蔵中将(海兵第40期)及び第55警備隊司令:高島三治大佐(海兵第45期)以下の海軍将兵が守った。
[編集] 戦闘
1944年6月13日、アメリカ軍によるサイパン島に対する空襲が行われ、続いて戦艦や上陸船団を伴った艦隊がサイパン島に接近、艦砲射撃が開始された。
このサイパン島への侵攻は日本軍を驚かせた。なぜなら、日本軍側はアメリカ軍が5月27日にもっと南の西部ニューギニア、ビアク島に侵攻してきたことからパラオ諸島に攻撃が行われると予期していたからである。事実、第31軍司令官の小畑中将は、5月28日からパラオへ作戦指導のため出張しており、戦略的奇襲を受けた形になった。小畑軍司令官は急いでサイパンの軍司令部へ帰還しようとしたが、既にサイパン島周辺の制空権、制海権はアメリカ軍の手に落ちており、小畑軍司令官はグアム島から指揮を執ることになった。軍司令官不在の第31軍司令部は、井桁参謀長が責任者となって作戦指導を行ったが、少将である井桁参謀長が中将である斎藤第43師団長を指揮するという変則的な形となった。一方、日本海軍の連合艦隊司令長官豊田副武大将は6月15日、「あ号作戦」を発動する。
15日7時、アメリカ軍は上陸を開始した。9時ごろまでに300以上のLVT(Landing Vehicle Tracked、上陸用装軌車)で海兵隊8000名がサイパン島の西の海岸に上陸した。日本軍の反撃で損害を出したが日没までにはアメリカ軍は幅10km、奥行き1kmの橋頭堡を確保した。夜、日本軍は反撃を行ったが大損害を受け撃退された。
翌16日、第27歩兵師団の部隊が上陸しアスリート飛行場に向け進撃した。夜、再び日本軍は反撃を行ったが、アメリカ軍に打撃を与えることはできなかった。18日、斎藤中将は飛行場を放棄した。
「あ号作戦」で出撃した日本海軍は19日、20日のマリアナ沖海戦で大敗を喫した。これによりマリアナ諸島の日本軍は救援や脱出の望みを絶たれた。しかし、日本軍は降伏を選択せず戦闘を継続した。斎藤中将は防御に適した島の中部の山岳地帯にあるタポチョ山に防御線を敷いた。日本軍は洞窟を利用しアメリカ軍に抵抗した。
24日、第27師団長ラルフ・スミス少将が更迭された。
7月7日、日本軍は完全に追い詰められた。斎藤中将は残存部隊約3000名に総攻撃を命じ、井桁第31軍参謀長とともに自決した。日本海軍の部隊も総攻撃に参加、南雲中部太平洋方面艦隊司令長官をはじめ、指揮官など残りは自決したため、事実上、サイパン島の日本軍は壊滅した。7月9日にターナー中将はサイパン島の占領を宣言した。
多くの民間人が戦いの末期にバンザイクリフやスーサイドクリフから海に飛び込み自決した。
[編集] その後
この戦いの後、サイパン島はこれに続くグアム島やテニアン島攻略などマリアナ諸島での作戦やフィリピン侵攻の拠点となった。また、フィリピン、琉球諸島、日本本土への爆撃を行う爆撃機の基地としても使用された。
日本の大本営によるポツダム宣言受諾後も、その事実を知らない陸海軍将兵は遊撃戦を継続していたが、ポツダム宣言受諾の事実を知り順次投降した。タッポーチョ山を拠点としていた歩兵第18連隊衛生隊の大場栄陸軍大尉以下47名の部隊は、昭和20年12月1日に独立混成第9連隊長の天羽馬八陸軍少将(陸士第23期卒)の正式の命を受け、投降した。大規模な投降としては最後のものである。なお、歩兵第18連隊主力は昭和19年5月にグアムに移駐したが、衛生隊ほかは移駐が間に合わず、サイパンの戦いに加わることとなっていた。
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