ミタンニ
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ミタンニはフルリ人が紀元前16世紀頃メソポタミア北部のカブル川上流域を中心に建国した王国である。戦士階級に支配される封建的国家であり、支配階級は元来インド・ヨーロッパ語族系の出自を持つと推定される。
フルリ人(フリ人、旧約聖書でホリ人と呼ばれる人々と言われている。)の言語、フルリ語は系統不明の膠着語(コーカサス諸語との関連を主張する説もある)であり、ヒッタイトのボアズキョイ、エジプトのアマルナ等から出土した楔形文字による文書(外交文書など)によって知られる。フルリ人は紀元前18世紀頃から活動したらしく、同じ頃エジプトに侵入したヒクソスと関係があるとの見方もある。特に馬を用いる技術に長け、ヒッタイトにおける馬の技術もフルリ人から導入されたと考えられる。
フルリ人自体はインド系ではないが、文書の中には明らかにサンスクリットで解釈できる単語が多い。ヒッタイトとミタンニとの間の条約ではインドのヴェーダの神ミトラ、ヴァルナ、インドラやナーサティヤ(アシュヴィン双神)に誓いが立てられている。また人名にもサンスクリットで解釈できるものが多い。「ミタンニの調馬師キックリ」という文書(ボアズキョイ出土)にはaika(サンスクリットのeka、1を意味する)、tera(tri、 3)、panza(pancha、5)、satta(sapta、7)、na(nava、9)、vartana(vartana、丸い)といった単語が使われ、ほかの文書にはbabru(babhru、茶色い)、parita(palita、灰色の)、pinkara(pingala、赤い)といった単語もある。彼らの一番重要な祭りはvishuva(冬至・夏至)であった。ミタンニの支配階級である戦士は自分たちをmaryannu(marya、勇士)と呼んだ。これらのことから戦士はインド・イラン系(おそらくインド系に近い)の出自を持つと考えられる。
紀元前16世紀頃、ワシュカンニ(ワスガンニ、正確な場所は不明)を首都とするミタンニ王国(アッシリアではハニガルバトと呼ばれた)が周辺のフルリ人たちを統一し、東隣のアッシリアをも支配下に置いて、以後メソポタミア北部(シリアを含む)を支配した。さらにウガリットなど地中海沿岸諸都市も支配下に置き、エジプトおよびバビロニアと対立した。のちヒッタイトの属国となったが、約300年間存続した。
[編集] ミタンニの王
- キルタKirta 紀元前1500年 - 紀元前1490年頃
- スッタルナSuttarna 紀元前1490年 - 紀元前1470年頃
- バラタルナBaratarna 紀元前1470年 - 紀元前1450年頃
- パルサタタルParsatatar 紀元前1450年 - 紀元前1440年頃
- サウスタタルSaustatar 紀元前1440年 - 紀元前1410年頃
- アルタタマArtatama 紀元前1410年 - 紀元前1400年頃
- スッタルナ2世Suttarna II 紀元前1400年 - 紀元前1380年頃
- アルタシュマラArtashumara 紀元前1380年 - 紀元前1380年頃
- トゥシュラッタTushratta 紀元前1380年 - 紀元前1350年頃
- マッティヴァザMattivaza 紀元前1350年 - 紀元前1320年頃
- サットゥアラ1世Sattuara I 紀元前1320年 - 紀元前1300年頃
- ヴァシャサッタVashasatta 紀元前1300年 - 紀元前1280年頃
- サットゥアラ2世Sattuara II 紀元前1280年 - 紀元前1270年頃
いずれもサンスクリットで解釈できる名である(Sutarna「善き太陽」、Paratarna「大いなる太陽」、Parashukshatra「斧を持つ支配者」、Saukshatra「善き支配者」、Ritadhama「宇宙の法に従う」、Mativaja「祈りに富める者」など)。
ミタンニは周囲の国との間で政略結婚を繰り返した。アルタタマ王の娘はエジプト王トトメス4世と結婚した。スッタルナ2世の娘ギルキパGilukhipaはエジプト王アメンホテプ3世(トトメス4世の子)と結婚した。トゥシュラッタ(ダシャラッタ)王の娘タドゥキパTadukhipaはアメンホテプ3世の子アメンホテプ4世(アクエンアテン)の2番目の后となった。 (「キパ」はサンスクリットでkshipa「夜」)。アメンホテプ3世は晩年にトゥシュラッタに宛ててタドゥキパと結婚したいとの手紙を何度も書いている。しかし彼女が来る前にアメンホテプ3世は死んだようである。タドゥキパは新王アクエンアテンと結婚した。彼女は王妃キヤ(キパのことか?)であるとも、あるいは別の王妃ネフェルティティであるとも言われている。
紀元前1350年頃にヒッタイトのシュッピルリウマ1世がミタンニに攻め込み、トゥシュラッタは暗殺された。紀元前1330年頃には、かつてミタンニの支配下にあった東側のアッシリアが王アシュルウバッリト1世の下で独立した。トゥシュラッタの子マッティヴァザはシュッピルリウマの庇護を受けながら即位し、その後ミタンニはヒッタイトの属国として存続した。