メジロマイヤー
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性別 | 牡 |
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毛色 | 栗毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1999年3月18日 |
死没 | (現役競走馬) |
父 | サクラバクシンオー |
母 | メジロエルナス |
母の父 | サッカーボーイ |
生産 | メジロ牧場 |
生国 | 日本(北海道伊達市) |
馬主 | メジロ牧場 |
調教師 | 田島良保(栗東) |
競走成績 | 30戦6勝 |
獲得賞金 | 2億200万9000円 |
メジロマイヤー(1999年3月19日 - )は日本の現役競走馬である。馬名の由来は、アルペンスキー選手で長野オリンピックでは2個の金メダルを獲得したヘルマン・マイヤーからである。
[編集] 戦績
2001年9月15日、デビュー戦となった阪神競馬場の新馬戦では飯田祐史が騎乗し4番人気で2着だった。その後デビュー4戦目の未勝利戦で初勝利を挙げた。
2002年、500万下クラスの白梅賞を3番人気で勝利し、初の重賞挑戦となった第42回きさらぎ賞では6番人気ながらアグネスソニック、メガスターダムらを相手に見事勝利し、重賞初挑戦で重賞初制覇を成し遂げた。そして初のGI挑戦となった第62回皐月賞では中舘英二が騎乗し9番人気で最下位の18着と大敗してしまう。その後2走も大敗が続いた。
2003年、第47回阪急杯を13番人気ながら5着、東風ステークスを3番人気で3着とまずまずの成績だったが、その後2走は凡走してしまった。しかし、第41回愛知杯で7番人気ながら3着となり、その後3着、4着と入着が続くも1600万下クラスの市川ステークスで10着と大敗してしまった。
2004年、5歳となっての緒戦である新春ステークス(1600万下)こそ16着と大敗してしまうが、その後の1600万下クラスのレースを3着、2着、2着と好走し、鞍上に武豊を迎えた道頓堀ステークス(1600万下)で約2年振の勝利を挙げた。そして次走のオーストラリアトロフィーも勝利し、2連勝で約2年振りのGI挑戦となった第54回安田記念では武幸四郎が騎乗し、大逃げの走りを見せるも12番人気で最下位の18着と大敗してしまった。その後長期休養となる。
2005年、復帰戦となった第41回中日新聞杯は13番人気で14着、2005ファイナルステークスも9番人気で14着と大敗してしまう。
2006年、初めて川田将雅が騎乗し臨んだ第40回小倉大賞典では11人気と低評価ながら見事に逃げ切り、約4年振りの重賞制覇となった。また鞍上の川田将雅にとってはJRA重賞初勝利となった。しかしその後の3走は大敗が続いた。
[編集] エピソード
2004年4月24日に行われたオーストラリアトロフィーの前日23日に馬主だった北野ミヤが亡くなり、同レースを制した際に武豊は「お世話になった北野おばあちゃんのために、どうしても勝ちたかった」とコメントし弔いの勝利となった。
2006年2月4日に行われた第40回小倉大賞典では、騎乗した川田将雅は佐賀県出身であり故郷九州で嬉しい重賞初制覇となった。