川田将雅
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川田 将雅(かわだ ゆうが、1985年10月15日 - )はJRA(日本中央競馬会)の騎手である。佐賀県出身。曾祖父(川田若也)が佐賀競馬場所属の騎手で、祖父(川田利美)・父が調教師(父・川田孝好は佐賀競馬場の現役調教師)という競馬ファミリーに生まれる。同じくJRA所属の鮫島良太騎手とは、幼稚園時代から先輩後輩の関係。
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[編集] 来歴
2004年3月7日、栗東・安田隆行厩舎所属の騎手として、中京競馬第2競走のシュアリーゴールドでデビューし、15頭立ての5着に入る。初勝利は3月20日、阪神競馬第8競走のホーマンルーキー。1年目は16勝で終わるが人気薄の3着が多く、その頃からも穴騎手として注目されていた。とりわけ、500万円以下クラスの3着率が高く、1年目の3着17回のうち、12回は500万円以下クラスでのものであった。
2005年は成績を大きく伸ばし、39勝を挙げた。しかし、特別競走での勝利は前年のゲヴァルトの甲東特別とエイシンへーべの大濠特別の2勝のみで、プレッシャーに弱いというところもあり、穴騎手という印象が強かった。また、2月26日の丹波特別で、ゲヴァルトがゲートで暴れて第2頚椎骨折を発症し斃死になった。その時、川田は真っ先にゲヴァルトの元に向かい、その後関係者から渡された、ゲヴァルトのゼッケンを持ち帰り、泣き崩れていたという話がある。川田にとっては初の特別勝ちをもたらしてくれた馬であり、相当の思い入れがあると思われる。
2006年からは、フリーの騎手として活動している。小倉大賞典をメジロマイヤーとのコンビで逃げ切り、嬉しい重賞初制覇を達成する。さらに、中京記念ではマチカネオーラとのコンビで豪快に捲り、重賞2勝目をあげた。そして、東京優駿(日本ダービー)で初めてのGI騎乗を果たす(スーパーホーネットで15着)とその直後の目黒記念をポップロックで勝利した。
2006年9月30日の中京競馬第4競走で落馬し、右橈骨骨幹部骨折・右尺骨頭脱臼という大怪我を負った。2007年1月6日の京都競馬で復帰するまで長期休養を余儀なくされたが、この間「観るとイライラするので競馬は観なかった」という。
2006年には関西騎手リーディングの11位に入るなど、若手としてトップクラスの活躍を見せている。また接戦に強く、2006年に写真判定になった際の勝率は、10回以上機会があった騎手の中で第1位だった。一方、なぜか午前中のレースでは人気馬に騎乗した場合でも5着以内に入るのがやっと、ということが多い。「午前中の将雅は黙って消し」という不名誉な格言も囁かれている。
[編集] 重賞勝ち鞍
[編集] エピソード
- 2007年2月26日、東京都渋谷区のプラザエクウスで行われた『ジョッキー・スペシャルトーク』に、吉田隼人と共に登場した。前日に阪神競馬場で騎乗し、翌日には栗東に戻って調教に騎乗するというハードスケジュールであった。
- 2007年4月1日、阪神競馬第1レースの3歳未勝利戦にて白毛馬のホワイトベッセルに騎乗して勝利。JRA史上初の白毛馬での勝利騎手として歴史に名を残すこととなった。この時は余程嬉しかったのか、第1レースの未勝利戦であるにもかかわらずガッツポーズを見せた。レース後のコメントでも「重賞レースと同じくらい興奮した」と語っている。
[編集] 最近の若手騎手の環境
最近の若手騎手は成績が伸び悩む騎手が多いが、藤岡佑介のように一気に成績を上げる騎手から、川田のように地方競馬の騎手のような腕っ節を見せる騎手、松岡正海のようにきっかけ一つで、リーティングジョッキーランキングの上位に見せる騎手もいる。