モンブラン
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モンブラン | |
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標高 | 4,810 m |
位置 | 北緯45度50分東経6度55分 |
所在地 | フランス・イタリア国境 |
山系 | ペニンアルプス |
種類 | -- |
初登頂 | 1786年8月8日 ジャック・パルマ ミシェル・パカール |
モンブラン(仏:Mont Blanc)は、ヨーロッパアルプスの第五高峰。標高4810m。フランスとイタリアの国境に位置する。西ヨーロッパでは最も高い山である。
フランス語でモン (Mont) は「山」、ブラン (Blanc) は「白」を意味し、「白い山」の意味である。イタリアでは、イタリア語で同じく「白い山」の意味のモンテ・ビアンコ (Monte Bianco) と呼ばれる。また、「白い婦人」を意味するLa Dame Blancheというフランス語の別名もある。
モンブランはイタリアのヴァッレ・ダオスタ州とフランスのオート=サヴォワ県の中間に位置している。山頂がイタリアとフランス、どちらの国に属するのかはしばしば議論の対象となっている。両国とも、自国の地図においては、山頂を自国の国境線の内側に取り入れる傾向にある。1861年にトリノで開かれたフランスと当時のサルディニア王国との会議では、国境線はモンブラン山頂を通るように定められ、現在のところこれが最終的な公式の合意となっている。しかし、フランスの地図は、しばしばこの合意を無視することがある。
モンブランに最も近い町は、フランス側ではオート=サヴォワ県・シャモニー、イタリア側ではヴァッレ・ダオスタ州のクールマイユールである。1957年から1965年にかけて、この二つの町を結ぶ全長11.6kmのモンブラントンネルの掘削が行なわれ、現在ではアルプス越えの主要ルートの一つとなっている。
魔の山と恐れられていたモンブランは、1786年8月8日に水晶取りのジャック・バルマと医者のミッシェル・ガブリエル・パッカールによって征服される。
菓子のモンブランの語源にもなっており、この山に似せて作ったことからモンブランの名が冠してある。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] 最初の登頂
1786年8月8日、ジャック・パルマとミッシェル・ガブリエル・パッカールは、初めてモンブランの登頂に成功した。この登山は、近代登山の創始者といわれるH.B.ド.ソシュールの主導のもとに行なわれ、これが成功した要因の一つであるとされる。1808年にはマリー・パラディスが女性として初めて登頂に成功した。1886年には後のアメリカ合衆国大統領、セオドア・ルーズベルトが新婚旅行中、登山隊を率いて登頂した。
現在、モンブランは年平均2万人の登山者によって登頂されており、熟練した登山者にとっては難易度のそれほど高くない山となっている。この印象は同じモンブラン山系のエギュイ・ド・ミディの山頂までケーブルカーで登ることができ、そこからモンブラン山頂までの標高差は1000m程に過ぎないことによって、ますます強固なものになっている。
しかし、今日でもモンブランは多くの死傷者を出している山であり、最盛期(八月頃)の週末には地元のレスキュー隊が一日平均12回出動している。これらの多くは一般の登山道への出動である。モンブラン登頂には、高高度における登山の知識、ガイド(もしくは熟練の登山者)、そして十分な装備が不可欠である。登山路には滑落の危険性がある部分などもある。また、高山病の危険性もある。
[編集] 山頂の領有国
フランス革命以来、モンブランの山頂がどの国に属するのか度々議論になっている。革命以前は、何世紀にも渡ってモンブラン全体がサルディニア王国の領土であった。 1796年5月15日、国境線を決定するための最初の協定が結ばれた。この協定でサルディニア王国は、ナポレオンの圧力により、サヴォワ県とニースの周辺をフランス共和国に移譲しなければならなかった。この協定の第4条には以下のようにある。
- The border between the Sardinian kingdom and the departements of the French Republic will be established on a line determined by the most advanced points on the Piedmont side, of the summits, peaks of mountains and other locations subsequently mentioned, as well as the intermediary peaks, knowing: starting from the point where the borders of Faucigny, the Duchy of Aoust and the Valais, to the extremity of the glaciers or the Monts-Maudits: first the peaks or plateaus of the Alps, to the rising edge of the Col-Mayor.
この協定は更なる混乱を生んだ。この協定では国境線はシモニーとクールマイヨールの双方から視認できる位置に置くことになっていた。しかし、山の一部が山頂を隠すため、クールマイヨールからはモンブラン山頂を望むことができなかった。この協定は内容が不正確であったため、後に新たな条約に置き換えられた。
1860年3月24日、ナポレオン3世とヴィットーリオ・エマヌエーレ2世により、サヴォワ県の併合に関する協定が締結された。1861年3月7日には国境に関する合意が行なわれ、新しい国境線が定義された。
1823年の地図「Sarde Atlas」では国境線は山頂の稜線にそって決められていたことがわかる。
3月7日の協定では、以前の稜線にそった国境を中心にして、更に中央山塊の境界線を考慮した国境線をモンブランの氷冠上に定めた。これにより、モンブラン山頂はイタリアとフランスの双方の領土となった。 Watershed analysis of modern topographic mapping not only places the main summit on the border, but also suggests that the border should follow a line northwards from the main summit towards Mont Maudit, leaving the south east ridge to Mont Blanc de Courmayeur wholly within Italy. Despite the fact that the Franco-Italian border was redefined in both 1947 and 1963, the commission, made up of both Italians and French, tactfully ignored the Mont Blanc issue.
[編集] 関連項目